これがその時のAFPの最初の記事だ。「東ドイツ政府は9日、外国へ移住を求める国民に対し、直ちに国境を開放することを決定。東ドイツ・社会主義統一党(Socialist Unity Party)中央委員会の高官、ギュンター・シャボウスキー政治局員が東ベルリンで発表した」

 その後、同決定は西ドイツへの出国にも適用されると緊急発表が続き、「夕方から夜じゅうずっと」続報を出し続けたという。

 その頃には、西ドイツのメディアも事態の大きさをつかんでいた。公共放送ARDは「東ドイツが国境を開く」との見出しで、ニュースキャスターが「誇張した表現は控えなければいけないが、今夜だけは11月9日が歴史的な日になると言ってもいいだろう」と語った。

 午後8時22分、ボンでは議会が一時休会し、議員たちが立ち上がって国歌を歌い始めた。喜びで目に涙をためている議員もいた。

 一方、ドゥバロシェが記者会見場から東ベルリンの小さな支局に戻ってくると、記者やスタッフたちは興奮に包まれていた。ドゥバロシェは「壁で何か起きていると聞いて、チェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)に向かった。外国人が東西ベルリンを通過することができた唯一の検問所だ」と語った。

 壁の西側には、リチャード・インガムがノートを持って立っていた。西側に行く前に、東ベルリン支局から速報を送り続けていた記者だ。「ひどく寒い日で、あそこに立っていたのは自分だけだったと思う」と、彼は振り返る。

 だが夜が更け、ニュースが広まるにつれ、大勢の群衆が壁の両側に押し寄せてきた。西側から見た壁は落書きだらけで、東側から見たそれはしみひとつなかった。そして11時30分、東西ベルリン市民のエネルギーをもう制御することができなくなった国境警察が、上からの指示なしに、ついに最初の検問所を開放した。そしてもうひとつの検問所も開かれた。

「ただただ、すごい熱狂と興奮だった。狂喜!狂乱!」とインガム。ドゥバロシェも同じ現場を見ていた。「水があふれ出ているシンクのプラグを抜くような感じだった。人々は壁をよじ登ったり、壁の上で飛びはねたりしていた」