当時はもちろんインターネットなどない時代。そのような歴史的ニュースをリアルタイムで報じるのは、まさにミッション・インポッシブルだった。

 携帯電話はあっても、アタッシェケースほどの大きさ。さらに「固定回線も脆弱(ぜいじゃく)だった。3人が同時に電話をかけただけで混線した」と、ドゥバロシェは言う。

 西側では、最も近い電話ボックスでさえ壁から数百メートル離れた場所にあった。ボン支局の記者だったフレデリック・ビション(Frederic Bichon)は「みんな疲労困憊(こんぱい)だった。何度も走って往復したんだ」と回想する。

 記事はテレックスで送った。現場からパリ(Paris)の本部に送るには、相当の時間がかかった。ルフォレスティエは、「1字ずつ送るようなもので、間違ったら最初から送り直さないといけないこともあった」と語る。

 ビションも、「今の時代ほど多くの記事を書くことはできなかった。技術的に無理だったからだ」と言う。

 AFPはすぐにボンとパリから補強要員を送った。ジャンルイ・デ・ラ・バシレ(Jean-Louis de la Vaissiere)は壁が崩壊した週末、資本主義の西ドイツに渡った東ドイツの人たちに同行して取材した。地下鉄は満員で、車両が駅から出発できないほどだったという。

 高級な店が立ち並ぶ通りでは、東ベルリンの人たちは初めて見る光景に驚きを隠しえなかった。東から来た新規の顧客にボーナスを出す銀行の前には「250~300メートルの長蛇の列ができた」。

 AFPはこの平和裏に成し遂げられた革命のすべてをあらゆる側面から報じた。その中には西ドイツの性産業も含まれる。ある記事で、デ・ラ・バシレはこう書いた。「のぞき見ショーの店に貼り紙が出してあった。『今日は朝10時ではなく午後2時に開店します。スターのノラとチャーリーが忙しい日曜を終えて、休息をとっていますので』」

 幸運にも現場にいた記者たちは、壁が崩壊した後の目まぐるしい過渡期を肌身で感じることができた。

 現在はベルリン支局長を務めるビションは、「ブランデンブルク門(Brandenburg Gate)の前の壁が壊されるのを、私は米国人の同僚と一緒に見ていた」と語った。「戦場記者として多くを見てきた彼が、号泣していた」

 25年後の今、私たちベルリン支局の記者がポツダム広場でランチを食べるとき、ここにそびえ立っていたあの分厚いコンクリートの壁を思わずにはいられない。(c)AFP/Yannick Pasquet


この記事は、AFP通信のベルリン在住の記者、Yannick Pasquetが書いたコラムを翻訳したものです。