■プリンツィプの評価、ボスニア内戦も影響

 その代わりセルビア人は27日、サラエボ東部で高さ2メートルのプリンツィプの銅像の除幕式を行い、翌28日にはボスニア・ヘルツェゴビナ東部ビシェグラード(Visegrad)で独自の式典を開催した。一連の式典にはセルビアのアレクサンダル・ブチッチ(Aleksandar Vucic)首相や、「セルビア人共和国」のミロラド・ドディック(Milorad Dodik)大統領といったセルビア人有力政治家らが出席した。(ボスニア・ヘルツェゴビナは「セルビア人共和国」と、イスラム教徒とクロアチア人で構成する「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」の2つの「国家内国家」から構成されている)

 ドディック氏は数百人の聴衆に対し、「プリンツィプの銃弾は欧州に向けられたのではない。セルビア人国家の最終的な解放を目的とした自由の銃弾だ」などと語りかけた。

 セルビアから式典に参加した男性(58)は、「ガブリロ・プリンツィプは20世紀の歴史で重要な人物。われわれは敬意を払うためにここに集まった」と語った。「(民族の)分断は残念なことだが、歴史的の真実を変えようとする動きも残念に思う。近年の出来事が動機になっているとすれば特にそうだ」

 1990年代のボスニア内戦が始まるまで、プリンツィプはサラエボで好意的に捉えられていた。プリンツィプは1920年に獄中で死去したが、その2年後に遺骨はサラエボ市内に改葬された。プリンツィプをたたえる銘板が複数作られ、プリンツィプにちなんだ名前が付けられた橋もあった。

 ボスニア内戦中、激しい戦闘の中でサラエボを包囲していたセルビア人勢力はプリンツィプを民族主義の象徴として心の支えにしていた。ボスニアのイスラム教徒の歴史研究家は、「サラエボを砲撃していたセルビア人勢力にとって、プリンツィプはカルト的人物だった」と指摘した。

 こうした経緯からプリンツィプは、サラエボから逃れられなくなったイスラム教徒やクロアチア人の民間人から嫌悪されることになった。内戦が終結すると、イスラム教徒やクロアチア人はすぐにプリンツィプをたたえる銘板を破壊し、プリンツィプに由来する橋の名を変更した。(c)AFP/Rusmir SMAJILHODZIC