【2月7日 AFP】ラジオ・サラエボ(Radio Sarajevo)の数十年に及ぶ局史の中で、ただ1度だけ通常放送が中断され緊急ニュースが飛び込んできたことがある。それはサラエボ(Sarajevo)が、1984年冬季五輪の開催地に選ばれた時だった。

 旧ユーゴスラビアを構成していた6共和国の1つ、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、札幌とスウェーデンのイエーテボリ(Gothenburg)という他の候補地を大方の予想に反して抑え、五輪の開催を勝ち取った。

 地元のベテラン記者によると、サラエボ市内とその周辺の山間部は、7日に2014年冬季五輪が開幕するロシアのソチ(Sochi)さながら、たちまち大規模な工事現場に様変わりしたという。この記者はAFPに対し、「新しいスタジアム、アイススケートやホッケーのリンク、スキーのコース、ボブスレーのスロープ、山にはスキーのジャンプ台、何もかも2年で完工した」と語った。

 しかし、これらが破壊されるのにも時間は掛からなかった。1984年には思いもよらなかった流血の民族紛争が8年後の1992年に勃発、五輪用に整備されたインフラ設備の大半が前線上に位置していたため、いずれも壊滅した。

 1984年2月のサラエボは、信じ難いほどの熱気に満ちあふれていたという。町が「一丸となって強い息吹を感じていた」と語るのは、当時、山林の危機管理対策関連の仕事に携わっていたドラゴ・ボジャ(Drago Bozja)さん。ボジャさんはさらに、「町は燃えていて、みんな幸せだった。街頭では知り合いでもない人々が集まって五輪の話に明け暮れ、誰もがこういうふうに進めて行くべきという意見を持っていた」と当時を振り返った。

 旧ユーゴ時代にバイアスロンで4度の優勝経験を誇るトミスラブ・ロパティック(Tomislav Lopatic)さんも、サラエボ冬季五輪は「ユーゴスラビアが『同胞国家』として取り組んだ最後の偉大なプロジェクトだった」と振り返る。自ら選手として出場した同大会では、「みんなが試合に命を懸けていて、心を開いて準備・運営に取り組んでいた。ユーゴスラビアに暮らすあらゆる民族が参加していた」という。

 ロパティックさんは、サラエボ近郊パレ(Pale)出身のセルビア人。パレは、内戦時にボスニア内のセルビア人の拠点となった場所だ。「それなのに、1~2年後には泥沼へ転がり落ちてしまった」

 現在バイアスロンのボスニア代表チームでコーチを務めるロパティックさんだが、当時の記憶は今も胸を締め付ける。自宅の小さな納戸に収めてあるメダルやトロフィー、写真に目をやりながら、「私の大志は、選手生命のピーク時にあの内戦に打ち砕かれた」とつぶやいた。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、約10万人の命が失われ、紛争前の人口のほぼ半数に当たる約200万人が家を追われた。(c)AFP/Rusmir SMAJILHODZIC