【11月22日 AFP】50年前の11月22日、ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)米大統領がテキサス(Texas)州ダラス(Dallas)で暗殺された。米国民の心に深い傷跡を残したこの事件とその後の展開は、テレビで生中継され、当時まだ主要メディアとして台頭し始めたばかりだったテレビが米国家庭の中心的存在となるきっかけとなった。

 事件後、テレビでは毎日、大統領暗殺の悲劇を伝えるニュースや特別番組が放映された。暗殺犯として逮捕されたリー・ハーベイ・オズワルド(Lee Harvey Oswald)が射殺された瞬間も、テレビカメラが捉えていた。リアルタイムで展開する事件は非常にテレビ向きで、報道に革新をもたらした。

■テレビの時代が訪れた週末

「ダラスでケネディ大統領の車列に銃弾3発が撃ち込まれた」とUPI通信が速報を出したのは1963年11月22日、金曜日の午後12時34分ごろだった。

 12時40分、CBSテレビが人気ドラマ「アズ・ザ・ワールド・ターンズ(As The World Turns)」の放映を中断し、暗殺事件のニュースを報じることを決定。ドラマの放映中断は当時、とても思い切った決断とみなされた。

 大統領の死を真っ先に伝えたのは伝説のアンカーマン、ウォルター・クロンカイト(Walter Cronkite)氏だった。暗く沈んだ表情の同氏が眼鏡を外し、理想に燃えた若き大統領が暗殺されたことを口にした瞬間は、米国民の心に焼き付けられた。

「見た人が忘れることのできない映像の1つだ」と、首都ワシントンD.C.(Washington D.C.)にあるジャーナリズムの博物館「ニュージアム(Newseum)」のキャシー・トロスト(Cathy Trost)副館長は語る。「あの週末に、テレビの時代が到来した。新聞を追い越し、米国人の主要なニュース情報源となったのだ」

■新聞文化からテレビ社会へ

 目まぐるしく展開した暗殺事件は、米国の報道の花形が新聞からテレビへと移行したことを示す象徴的な出来事だった。

 事件当時ダラスのABC系列テレビ局WFAAで番組編成ディレクターをしていたピアス・オールマン(Pierce Allman)氏によると、各局のトップは「3日3晩、通常の番組の放送を全て中止し」て、悲しみに暮れる米国民のとどまるところを知らない情報への欲求を満たすことに専念した。

 ケネディ大統領の棺(ひつぎ)がワシントンへ帰還した場面、暗殺から数時間後に行われたリンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson)副大統領の大統領就任式、オズワルド容疑者がダラス市警に到着した瞬間――。米国の人々は、テレビ画面に次々と映し出される映像にくぎ付けになった。

 マーケティング調査大手ニールセン(Nielsen)によると、当時テレビを所有していた米国家庭のうち、撃たれたケネディ大統領の容体を知ろうとテレビを見ていたのは45%。週明け25日の国葬の中継になると、その割合は80%を超えた。

 米ラトガース大学(Rutgers University)のデービッド・グリーンバーグ(David Greenberg)教授(ジャーナリズム)は、テレビはケネディ暗殺報道を通じて真剣なニュースメディアとしての地位を固め、他に類をみない独自の役割を担っていることを示したと指摘する。「テレビこそが、危機に際して人々が頼り、状況を解説してくれ、人々を慰め、国民の絆を深めるメディアになったのだ」

■テレビが「世界の窓」に

 暗殺事件後の4日間はそれまで米国が経験したことのない激動の日々だったが、ここでテレビは底力を発揮した。ABCニュース(ABC News)でキャスターを務めたロン・コクラン(Ron Cochran)氏は、「いつかテレビが世界へと通じる窓になるかもしれないと多くの人が期待していたが、本当にそうなった」とかつて話している。

 臨場感たっぷりに今起きたことを伝えるというテレビの役割は、オズワルド容疑者が射殺される瞬間にもしっかり果たされた。ひしめき合う報道陣が怒鳴り立てるようにオズワルドに質問を浴びせていたそのとき、群衆の中から1人の男が現れ、オズワルドに銃を向けるや発砲した――。ジャック・ルビー(Jack Ruby)による射殺の一部始終をテレビは中継した。

「ニュージアム」のトロスト副館長によると、ケネディ暗殺事件をめぐる大々的な報道に匹敵する規模のテレビ報道はいまだに、2001年9月11日の米同時多発テロ報道だけだという。

 ただしトロスト氏は、テレビが社会において確固たる地位を築いて久しいとはいえ、米国のメディア情勢は常に進化を続けているとも指摘。「今後、ニュースの第1報はソーシャルネットワーク上で伝えられるようになるだろう」と述べた。(c)AFP/Fabienne FAUR