【4月23日 AFP】指揮者の小澤征爾(Seiji Ozawa)さん(77)が、クラシック音楽誕生の地・欧州で学ぶ夢を果たすために、渡欧資金を援助してくれる企業を求めて日本全国を訪ね歩いたのは今から50年以上も前のことだ。

 早熟の天才に賭ける意気込みがあったのはわずか一社、欧州大陸を駆け巡るためにとスクーターを提供してくれた富士重工業(Fuji Heavy Industries)だけだった。ただし条件が一つあった。どこへ行くときもスクーターの後ろに日の丸を掲げ、戦後の高度経済成長期に突入しつつあった日本の宣伝に一役買うという条件だった。

 2か月間の航海を経て、背中に担いだギターと日の丸、スクーターと一緒に小澤さんが船から降り立ったのは、仏マルセイユ(Marseille)の港だった。指揮者としてやがて国際的なキャリアを成功させる第一歩だった。

 1959年に出会ったのが当時、米ボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestra)の音楽監督で、後に恩師となるフランス人のシャルル・ミュンシュ(Charles Munch)だ。仏東部ブザンソン(Besancon)で行われた国際指揮者コンクールで「彼らから賞をもらった」ときだったと振り返る。自分の受賞もさることながら、ミュンシュの指揮を目にして熱狂したという。都内のフランス大使公邸でのインタビューで小澤さんは「彼はいつもこんな風だった」と、ミンシュの普段の表情を真似てしかめ面をした。「けれど彼が少しだけ微笑むと、オーケストラの音がまったく変わった。それを見て魅了されました」。10年以上後に小澤さんはミュンシュの後を継ぎ、2002年まで29年間、ボストン交響楽団の音楽監督を務めることになる。

 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berlin Philharmonic)の指揮者として、20世紀後半のクラシック界に君臨した巨匠ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)には毎年、客演指揮者として招かれた。一緒に演奏プログラムを作るよう求められたが、オーケストラのマネージャーに断りなしでという、客演指揮者として前代未聞のことだった。「亡くなるまで毎年(カラヤンと一緒に)自分のプログラムを作りました。わたしが東洋から来た、(クラシック音楽の)伝統を持たないアジア人だったので、心配だったのではないでしょうか。とんでもないプログラムになってしまうのではないかと――」と言って小澤さんは大きく笑った。

■がん克服後も「ラレンタンド」とは程遠い生活

 小澤さんがこれまでのキャリアで招かれたオーケストラにはそうそうたる名前が並ぶ。レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)時代のニューヨーク・フィルハーモニック(New York Philharmonic)、トロント交響楽団(Toronto Symphony Orchestra)、サンフランシスコ交響楽団(San Francisco Symphony Orchestra)、ボストン交響楽団、そしてウィーン国立歌劇場(Vienna State Opera)――。

 しかし2010年、小澤さんは食道がんを患い手術を受ける。同年中に短期間復帰を果たしたが翌11年にはヘルニアの治療を受けた。12年春には回復に専念するため1年間の活動休止を宣言し、以来、指揮台に立って来なかった。

 77歳という年齢でがんを克服した後ならば、多くの人はのんびりしようと考えるかもしれない。しかし、引退へ向けての「ラレンタンド(次第に緩やかにの意)」とは程遠く、小澤さんは指揮棒を再び手にすることが待ちきれない。「わたしが指揮を始めると、若い人たちがそれに反応し、一緒に音楽を創造していく。その瞬間こそがわたしの人生なのです」

 国内での復帰は「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」のオペラの指揮で8月に予定されている。それに先駆け国外では、6月30日に自らが創設した「スイス国際音楽アカデミー(International Academy Switzerland)」の学生による演奏で、チャイコフスキー(Tchaikovsky)の「弦楽セレナード」を指揮する予定だ。7月には同じ曲を小澤国際室内楽アカデミー奥志賀(Ozawa International Chamber Music Academy Okushiga)で演奏する。さらに「来年に向けての準備として」、シェーンベルク(Schoenberg)の「浄夜(Verklärte Nacht)」で欧州の若手演奏家らを指揮する計画もある。

 小澤さんは今、日本とスイスの二つのサマーキャンプで教えることとその準備のために多くの時間を費やす一方、将来有望な若手音楽家を育成する小澤征爾音楽塾(Seiji Ozawa Ongaku-Juku)も年に一度、率いている。

 アジアの新人たちが多くの機会を手にするようになったことを誇りに思いながらも、クラシック音楽誕生の地を目にし、その本場を感じるために欧州へ行かなければならないと小澤さんは今も説く。「ワシントンにも桜は咲きますが、それは(日本とは)違います」。クラシック音楽も同じだという。「北京、東京、大阪、ソウルにも素晴らしい音楽学校がある」、けれど欧州に「行かなくてはならない」。ただし、スクーターで行く必要はないけれど、と小澤さんは言い添えた。(c)AFP/Harumi Ozawa