【9月18日 MODE PRESS】この仕事の日本での草分けの一人。スタイリストという呼び名も後になってからできた。「専門職としてフリーでスタイリングをするのは、たぶん日本が早かった」。雑誌「アンアン」の創刊に参加し、原さんがファッションとかかわった道のりが、日本の「スタイリスト」の原型となった。

■スタイリストの草分け

 アンアンの創刊は1970年だった。慶応義塾大学でフランス文学を専攻、卒業後に「もう少しフランス語を」と勉強していた原さんに声がかかった。「エル」誌との提携ファッションページの担当だった。ヘルムート・ニュートンらが撮りおろしたオリジナルスライドなどがフランスからどんどん送られてきて、「その編集を通して未知だった本場のファッションを学んだ」。

 この体験が基礎になって、さまざまなファッション特集の企画とスタイリングをするようになった。「エルジャポン」や「マリ・クレール」など他誌の特集や映画にも仕事が広がり、原さんがやっている仕事がスタイリストと呼ばれる職業になった。

■「ワクワク」するほど楽しい

 「エルの最初の仕事は大変だったけれど、わくわくするほど楽しかった。だから、この仕事を長く続けられたのだと思う」

 そして、かれこれ30年。毎日が変化に富み、「同じ日を送ったことなんてないですね」。常にいくつか仕事を抱えていて、決めた予定もどんどん変わる。撮影のため朝5時に家を出たり、編集部で深夜まで作業が続いたりすることも昔はあった。海外での仕事も多い。「一番多かった頃は、年2回のパリ・コレのほかに、海外ロケが8回。イギリス、モロッコ、タイ、ニューカレドニア。えーと、それからタヒチと随分いろいろな所に行きました」

■なによりも体力!!

 この仕事に必要なのは「まず1に体力、2に体力。3、4がなくて5に体力」。体力の裏付けがないと気力は出ない。気力があってこそセンスが磨かれる。その上で、「色んなものを数多く見ること」。ぼーっと見てないで、それがどんな意味があるか考えて、判断して、できればそれを口に出す。続けていけば「そのうち一本の軸みたいなものが見えてくる」という。

 スタイリストは、人と話すことの多い仕事。「電話をかけたり、人と話したりすることが嫌い」な原さんが続けてこれたのは、こうした日々の観察や判断、反省などを積み重ねてきたからに違いない。(c)MODE PRESS