イタリア映画界巨匠、アントニオーニへ各界から賞賛の声

08月01日 21:10


1967年5月9日、カンヌ国際映画祭(Cannes Film Festival)に、女優のモニカ・ヴィッティ(Monica Vitti、左)らと共に登場した映画監督のミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni、中央)。(c)AFP


【8月1日 AFP】7月30日に亡くなった、イタリア映画界を代表する監督ミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni、享年94歳)に対し、各方面から賞賛の声が上がっている。 ■政界から称賛  フランスのジャック・ラング(Jack Lang)元文化相はアントニオーニを「世界映画の巨匠」とたたえ、「映画に再び、文学の知性を盛り込むことで、映画の言葉を激変させた」と述べた。ラング氏は1993年の文化相時代に、アントニオーニに芸術・文学勲章を授与している。  ワルテル・ベルトローニ(Walter Veltroni)ローマ市長は、アントニオーニは「最も偉大な監督の1人であるにとどまらず、現代映画の巨匠だった」と語った。「アントニオーニ監督の映画は、もう一つの現実の見方を教えてくれた。女性の表情や車のデザインを見る別の視点を与えてくれたのだ。彼の作品を見た後は、雲1つでさえ違って見えた」  イタリアのフランチェスコ・ルテリ(Francesco Rutelli)副首相兼文化相は、アントニオーニを「明快で感性豊かな知識人で、20世紀のひずみを鋭く見つめた人物だった」と語り、「彼の死で、イタリア映画界の歴史的一幕が終わりを告げた」と述べた。  欧州委員会(European Commission)のジョセ・マヌエル・バローゾ(Jose Manuel Barroso)委員長は、アントニオーニは「新しい表現方法を試みて生み出した、壮大な作品集を我々に残してくれた」と語り、「多大な悲しみ」を表した。 ■監督仲間も「個人的な巨匠」と絶賛  ギリシャ映画界で最も著名な監督であるテオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos)氏は、アントニオーニと、同じく30日に亡くなったスウェーデンのイングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman)監督の2人について、「充実した人生を送り、最高の作品を我々に残してくれた」と語った。  アンゲロプロスはさらに、アントニオーニを自身の個人的な巨匠だと述べ、「私たちが初めて会ったのはローマでした。私が、『情事(The Adventure)』(1960年、アントニオーニ監督作品)の鑑賞券を彼に見せたんです。この映画は13回も見ましたがね。すると彼は笑って、私の作品『旅芸人の記録(The Travelling Players)』の鑑賞券を見せてくれたんです。彼は正直にこの作品は2回しか見ていないと言っていましたが」とアントニオーニとの思い出を披露した。  手掛けた映画はわずか20作品前後のアントニオーニだが、「映画と文化に関して参考にすべき重要な人物」であり、映画を「より大人向け」にした、とイタリアのパオロ・ヴィルツィ(Paolo Virzi)監督は語った。  フランスの映画評論家のAldo Tassone氏は、アントニオーニもベルイマンも「戦後の苦悩と疎外感」を表現したと述べた。 ■数々の輝かしい受賞歴  アントニオーニが監督を務め高評価を得て、興行成績的にも初の成功となった『欲望(Blowup)』は1967年のカンヌ国際映画祭(Cannes Film festival)でパルム・ドール(Palme d’Or)を受賞。さらにヴェネチア国際映画祭(Venice International Film Festival)では、『赤い砂漠(The Red Desert)』で1964年の金獅子賞(Leone d’Oro)を獲得、1983年には経歴賞を手にした。また、アカデミー賞(Academy Awards)では1995年に名誉賞を受賞している。  飛行機を盗み、恋人とともに、ピンク・フロイド(Pink Floyd)やローリング・ストーンズ(Rolling Stones)の音楽をBGMにカリフォルニア州デスバレー(Death Valley)までフライトを楽しむ男を描いた、1969年の『砂丘(Zabriskie Point)』は失敗作だったが、当時、反体制文化の価値観を古典的に表現した作品だと考えられた。 ■映画に捧げた生涯  1912年9月29日、北イタリアのフェラーラ(Ferrara)に生まれたアントニオーニは、ボローニャ大学(University of Bologna)で経済学を学び、優秀な成績を収めた。  その後、地元雑誌の映画評論を担当。ローマへ移った後は、エクスペリメンタル・シネマ・センター(Experimental Cinema Centre)で映画制作を学びつつ、映画雑誌社にも勤めた。当時、これらの場所は、ファシズムに抵抗する中心地と考えられていた。  1942年にパリでマルセル・カルネ(Marcel Carne)監督の映画『悪魔が夜来る(Les Visiteurs du soir)』でアシスタントを務め、ロベルト・ロッセリーニ(Roberto Rossellini)監督の『ギリシャからの帰還(Un Pilota Ritorna)』では共同脚本を担当した。  翌年、自身初となるドキュメンタリー『The People of the Po(原題:Gente del Po)』を制作、1950年には長編デビュー作となる『愛と殺意(Cronaca di un Amore)』のメガホンを取った。  1985年に脳梗塞を患い体が部分的にまひするが、90歳になった2002年には、イタリア映画界から敬意をもって祝福されている。  アントニオーニの遺体は1日午前、ローマ市庁舎に安置され、翌2日、生まれ故郷のフェラーラに埋葬される。(c)AFP/Gina Doggett