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CAR 2020.9.12 

モータージャーナリストの清水和夫さんの人生を変えたクルマ 1972年式GC10型日産スカイライン

それぞれの人生で出会った「決定的なクルマ」について綴ったエッセイです。自動車ジャーナリストの清水和夫さんが選んだのは、「1972年式GC10型日産スカイライン」。人生を変えたクルマの物語をどうぞお楽しみください。

もしもセリカだったら……

レースやラリーでも活躍する清水さんの原点は大学生の時に買ってもらったスカイライン。親御さんがトヨタ党だったら、今の活躍はなかったかも!?

私はこの業界に入ったときから、ずっと言い続けていたことがある。それは「クルマは人生を変える」ということ。もし、あのとき、あのクルマと出会わなかったら私の人生は変わっていた。あのクルマのおかげで今がある。そう断言できるクルマが、私にはある。

平成元年に登場し、時代の申し子となった日産のR32スカイラインGT-R。当時、日産は1990年に世界一のクルマを作ると謳って“901活動”を宣言し、開発陣の士気を鼓舞した。この901活動によってそれまでのB級グルメ的クルマ作りから、世界と戦える三ツ星レストランへとシフトすることを目指した。

結果的に日産の思惑は100%達成できなかったものの、901活動で開発された代表作のR32GT-Rは、歴史に残る名車となった。当時のベンチマークはポルシェ944ターボ。技術的にはポルシェ959をも横目で見ていたのだから、志は非常に高かったのである。

しかし、私の人生を変えたのはR32スカイラインではなく、3代目スカイライン、GC10である。

1972年に免許を取得したとき、親に買ってもらったのが“箱スカ”の名で親しまれていたGC10。しかし、当時の私にはスカイラインというブランドに対する特別な想いがあったわけではない。たまたま自宅の近くに日産プリンスとトヨタのディーラーがあり、迷ったあげくスカイラインをチョイスした。個人的にはファーストバックのセリカにデザインで惹かれていたが、親にトヨタよりも日産のほうが一流という認識があり、スカイラインに決まったのだ。これが私の人生を変えた瞬間だった。もし、セリカを買っていたら、全く別の人生を歩んでいたに違いない。

スカイラインGTは当時90万円弱で、2リッター直列6気筒(L20型)にストロンバーグのシングルキャブ。ポルシェ・シンクロの5段マニュアル。4輪独立懸架のセミトレーリングアーム式サスペンションを持っていた。専門的なことは正しく理解できなかったが、とにかく凄いクルマなのだと実感した。スカイラインに乗って大学へ行ったらクルマ好きが集まってきて、カージャックされそうになったことを記憶している。

友人からラリーやレースを見に行こうと誘われ、山岳路やサーキットに通うようになった。自分も走りたくなり、ラリー用のスプリングに交換し、車高を上げてしまった。そこからガンガンと山を走った。山に行けないときは250円払って首都高速で訓練した。スカイラインでラリーに参加し、スキーに行ったついでに雪道を走り、テクニックを磨いた。その後はランサー、カローラ・レビンと乗り継ぎ、ラリーに没頭し、資金がつきたころに、スバルに拾われ、ワークス・ドライバーとなったのである。

1978年には、昭和53年排ガス規制でエンジンに元気がなくなり、環境対応のために、自動車メーカーはモータースポーツから撤退した。続いて、オイルショックで自動車業界に激震が走ったのである。トイレットペーパーがなくなり、ガソリン・スタンドも長蛇の列となった。そんな冬の時代に、プロ・ドライバーとして生活していたので、食べることに必死だった。

スカイラインも4代目から元気をなくし、7代目では“都市工学スカイライン”という意味不明なキャッチフレーズをあたえられた。技術的に4輪操舵の走りとなるハイキャスを実用化したが、スカイラインの名声は衰退するばかりだった。しかし、ついに8代目にR32スカイラインで、復活を遂げることになったのである。

考えてみれば、スカイラインはプリンス自動車の作品であり、中島飛行機をルーツにもつ生粋の技術集団が生んだクルマだ。スバルも同じルーツを持つメーカーだが、両社とも海外メーカーとは一切提携せず、技術の独自性を重んじていたのである。そのスカイラインと出会えたことで、私の人生はクルマの世界にどっぷりと浸かることになったのだ。

文=清水和夫(自動車ジャーナリスト)

(ENGINE2020年7・8月合併号)

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