2020.08.03

CARS

まるでサンダーバード2号 時計ジャーナリストの柴田充さんが愛した自由の精神を持った夢のクルマとは

1962年型フィアット600ムルティプラと柴田さん

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これまで出会ったクルマの中で、もっとも印象に残っている1台は何か? クルマが私たちの人生にもたらしてくれたものについて考える企画「わが人生のクルマのクルマ」。時計ジャーナリストの柴田充さんが選んだのは、「1962年型フィアット600ムルティプラ」。時にはホビールームに時にはリビングルームに。自分と同じ生まれ年のクルマは、自由の精神を持つ、笑顔をもたらす遊びの象徴だった。

僕のサンダーバード2号


残念なことではあるけれど、こんな事態になってクルマに乗る機会が以前より増えた。これまで取材や打ち合わせには電車やバスを使うことが多かったが、専らクルマでの移動になったからだ。そこには仕事後の一杯に立ち寄ることもなくなったという事情もあるけれど。



そうなると走る面白さだけでなく、あらためて“動くプライベートスペース”としてのクルマを思うようになった。これまでの車歴でもそんな楽しさを味わった愛車があった。それがいまから20年ぐらい前に乗っていた初代ムルティプラだ。

リア・エンジンでありながらステーションワゴンという、常識を覆したレイアウトで1956年に登場した。イタリア国内ではファミリーカーとしてだけでなく、商用車やタクシーとしても活躍したようだ。

フロントのベンチシートほか、リアには二座二列を備えた大人6人乗りで、しかもシートは折り畳み椅子のようにパタパタと床下に収納され、完全にフラットな空間に早変わりする。安全性からも現代では絶対に採用できない仕様だけれど、それも初代パンダの脱着式のハンモックシートに通じる、イタリアらしい合理的なインテリア発想なのだろう。

それまで10年ほどチンクエチェントに乗り続け、そろそろランクアップしようと思っていた頃だ。そんなタイミングで見つけたのがムルティプラであり、まるで兄弟分のような親近感もあった。どこがランクアップなのかわからないけれど。

知り合いのチンクエチェント専門店に相談し、見つかったクルマが自分と同じ生まれ年というのも背中を押した。こうしてわが家にムルティプラはやってきたのだった。

それまでのチンクエチェントが3畳一間だとしたら(実際にはそんな広くないけれど)、ムルティプラは6畳くらいになった気がした。そのスペースに比例してクルマの楽しみ方も格段に広がった。

趣味だったロードレーサーのトランスポーターとして使い、海外から車載用のバイクラックを取り寄せ、車内もガレージに仕立てた。またMTBの大会ではマウンテンバイクや器材を満載して伊豆のコースに出かけたこともある。

空冷から水冷になったエンジンに加え、ホイールベースも伸びて直進安定性が増し、乗り心地も快適になった。長距離もこなすようになり、当時開館したばかりのチンクエチェント博物館に招かれ、愛知県の南知多までロングドライブしたのも懐かしい。いまのクルマならなんてことのない片道約400kmの距離でも、何が起るかわからない大冒険だ。ノホホンとした見た目とは裏腹に、運転は緊張し続け、何事もなく着いた時には本当にホッとした。

週末ばかりでなく、都内の仕事先にも足代わりに使い、空いた時間はリアスペースをカフェ代わりにしたことも少なくない。キャンピングカーと呼べるほど本格的ではなかったが、時にはホビールームやリビングルームになった。まるでサンダーバード2号のように秘密の道具を格納したモービルスペースであり、楽しさに満ちた多様性はまさにムルティプラ(多目的)だったのだ。

そんな姿が街でも目立たないはずがない。まるで前後が逆になったようなスタイリングは、歩道の子供から「あのクルマ、逆に走ってる!」と指差されたり、赤ちゃんからガン見されたこともある。でもどの子も笑顔が絶えなかったから、けっして嫌われる存在ではなかったのだろう。結局6年ほど乗り、乞われて次のオーナーの元に渡った。

かつてないほど移動が制限されるようになったいま、もう一度乗りたいと思う。それは僕にとってクルマの持つ自由の精神であり、遊びの象徴だからだ。手元にあるカタログの写真には、ムルティプラの横でピクニックする人たちの笑顔がこぼれている。そんな笑顔を早く取り戻したいと思うのだ。いまこそサンダーバード2号出動の時だ。



文・写真=柴田 充(時計ジャーナリスト)


(ENGINE2020年7・8月合併号)

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