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CAR 2020.1.29 

ケン・マイルズとGT40のレースヒストリー。映画『フォードvsフェラーリ』で描かれなかった真実とは?

「大器晩成」という言葉があるが、映画『フォードvsフェラーリ』の主役の一人というべきケン・マイルズがフォードGT40でレースに出たのは、実に46歳の時だった。

『フォードvsフェラーリ』の中では気難しい職人気質として描かれるケン・マイルズだが、“西海岸のスターリング・モス”と呼ばれるほどレースマナーの良さには定評があり、あまり表に出て目立つことも得意としなかった(残された当時の映像を見てもマイルズだけインタビューを受けないケースは多い)ようだ。

それゆえキャロル・シェルビーの信頼も厚く、1964年末にフォードGT40でのワークス活動をシェルビー・アメリカンが請け負うことになった際、マイルズもそのテスト兼レギュラー・ドライバーの一人に名を連ねることとなったのである。

マイルズはこの時すでに46歳。GT40誕生時からの正規ドライバーだったブルース・マクラーレン(あのマクラーレンの創始者である)が27歳の現役F1ドライバーでもあったことを思うと、異例の抜擢であったことがわかるだろう。

しかしシェルビーの策略は見事に当たった。前年までのウィークポイントであったギヤボックスやエアロダイナミクス、ホイール、ブレーキなど全方位的に改良を施されたGT40を任されたマイルズは、ロイド・ルビーとともに初陣である65年2月のデイトナ・コンチネンタル2000kmで、GT40に初のレース優勝をもたらしたのだ。

続く3月に行われた伝統のセブリング12時間でも、マクラーレンとコンビを組んだマイルズは快走、総合優勝こそシャパラルに奪われるものの2位でフィニッシュし、プロトタイプ・クラス優勝を果たしたのである。

4月になるとマイルズはチームとともにヨーロッパへ移動。ル・マン・テストデイを走った後、モンツァ1000kmでマクラーレンとともに3位に入賞している。

1965年のル・マンを走るマイルズ/マクラーレン組のフォードGT40マークII。フロントのリップスポイラーやリヤの垂直尾翼など、他と違うディテールに注目。

映画ではフォード上層部との確執で65年のル・マンには不参加という脚色がなされているが実際はその逆で、マイルズはマクラーレンとともに出場。しかもゼッケン1を付けた7リッターの427ユニットを搭載したニューマシン、GT40マークIIが与えられた。

予選でチームメイトのフィル・ヒル/クリス・エイモンのGT40マークIIがコースレコードを9秒も縮める圧倒的なタイムでポールポジションを獲得。決勝では4番手からスタートしたマイルズ組とともに圧倒的な速さで1-2を占めたものの、485hpと言われたパワーにギヤボックスが耐えきれず、日没までに両車ともリタイアの憂き目にあっている。

この敗北の後、すぐにシェルビー・アメリカンは翌年に向けてのテストを開始。半年以上の歳月をかけGT40マークIIは最強のマシンへと仕立て上げられた。

そして1966年、ケン・マイルズは47歳にしてキャリアの絶頂を迎えることとなる。

マニュファクチャラーズ・チャンピオンシップの開幕戦となるデイトナ24時間に現れたGT40マークIIはシェルビーからの3台と、準ワークス格のホルマン-ムーディからの2台の計5台。このうち前年と同じマイルズとルビーのコンビにはシャシーナンバー“1015”があてがわれた。

1966年のデイトナ24時間で優勝を果たしたマイルズ/ルビー組のGT40マークII。この年のル・マンでも使用したシャシーナンバー“1015”だ。

予選でポールポジションを獲得したマイルズ組は、決勝でも2周目にトップに立つとそのまま独走し、圧勝でデイトナ2連覇を飾る。

その1ヶ月半後に行われたセブリング12時間でマイルズ/ルビー組は、アルミモノコック(本来はスチール)を持つオープントップの実験車GT40マークII“X1”で出場。マシン自体の戦闘力が低く苦戦を強いられるが、最終ラップでトップを走る ダン・ガーニー/ジェリー・グラントのGT40がトラブルでストップ。大逆転でシーズン2連勝を飾ることとなり、マイルズは一躍時の人となったのである。

デイトナに続きセブリング12時間でも優勝したマイルズ/ルビー組。アルミモノコックの実験車、GT40マークII“X1”で出場した。

シェルビー・アメリカンはチャンピオンシップよりル・マンを優先し、モンツァ、タルガ・フローリオ、スパ・フランコルシャン、ニュルブルクリンク戦をキャンセル。一方のマイルズにもデイトナ、セブリング、ル・マンの世界3大クラシック耐久レース制覇という前人未到の大記録達成の可能性が見えていた。

迎えた1966年6月のル・マン24時間レースにフォードは、シェルビーの3台を筆頭に各チームから総勢13台ものGT40を投入。当初マイルズは馴染みのルビーと出場の予定だったが、飛行機事故でルビーが負傷したため、ブラバムのF1ドライバーで経験豊富なデニス・ハルムとコンビを組むこととなった。

ル・マンでのケン・マイルズ(右端)とGT40“1015”。フェンダーに識別用の赤いラインが入っていないことからプラクティスでの撮影と思われる。
1966年ル・マン24時間のスタートシーン。今と違い、グランドスタンド側からドライバーがピット側に整列したマシンへと走って乗り込みスタートする。手前から2人目、少し遅れているのがケン・マイルズ。

彼らがドライブしたのは、デイトナでも優勝した縁起のいいシャシーナンバー“1015”。予選でチームメイトのガーニー組に続く2番グリッドを獲得したマイルズ組だが、スタートでドアが完全に閉まらなくなるトラブルが発生。急遽ピットでメカニックに直させるというハプニングは映画の中にも描かれている。

これで後方に下がったマイルズだが、ラップレコードとなる3分34秒を叩き出しながら追い上げ、8周目には9位に浮上、トップのガーニー組とファステストラップの塗り替え合戦を行いながら順位を上げていき、4時間目にはついにトップへと浮上したのだ。

その後、マイルズとハルムはベテランらしく危なげない走りでトップをキープ。ついにマイルズの大記録が達成されるか! と思われたが、3台並んでのゴールにまつわる混乱で、2位と裁定され、3大クラシック耐久制覇の夢は潰えてしまった。

問題のゴールシーン。なぜマイルズが先頭を切ってゴールしなかったのか? は永遠に謎のままだ。

余談だが、このゴールに関してフォード副社長レオ・ビーブが、劇中に描かれているようにマイルズを貶めるために暗躍したかどうかは定かではない。事実なのは、ヘンリー・フォードII世の目の前で、大々的な記録映像班まで派遣していたフォード首脳陣が、PR効果を狙って3台揃ってのゴールシーンを指示したことだ。

左はマスタングの生みの親の一人でもあるフォードのプロダクト・マネージャー、ドン・フレイ。中央は劇中で敵役とされているフォード副社長のレオ・ビーブ。

ゴール後、マイルズ組の降格を知ってフォード陣営は、優勝したマクラーレン/エイモン組と同着優勝にできないかと主催者に掛け合ったというエピソードも残されているが、若者へのアピールを目的としていたフォードにとって、中年のマイルズと老け顔のハルムより、弱冠22歳のエイモンと28歳のマクラーレンによる現役F1イケメン・コンビの方がPR向きであったのは否定できない。

混乱の中行われた表彰式。左がマクラーレン、中央がヘンリー・フォード2世、右がエイモン。ちなみにエイモンは1963年に19歳でF1デビューを果たした当時の最年少記録保持者でもある。

いずれにしろ、ケン・マイルズがGT40を駆ってレースをしたのは、46歳から47歳にかけてのわずか2年間、7レースしかない。その中でマイルズが残した総合優勝3回、2位2回、3位1回という結果が、並外れたものであったことに疑いの余地はない。

その功績を称えられたマイルズは、死後35年経った2001年にモータースポーツ殿堂入りを果たしている。

文=藤原よしお 写真=Ford Motor Company

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