2019.10.18

CARS

82歳で亡くなった世紀の自動車人 フェルディナント・ピエヒが遺したもの

ポルシェ創業者の孫であり、フォルクスワーゲンのCEOも務めたフェルディナント・ピエヒが8月25日に逝去した。時に厳しい批判にさらされながらも、数々の偉業をなしとげた82年の生涯を振り返る。


世界中のジャーナリストらが参加し、20世紀の自動車界を総括すべく1999年に発表された「カー・オブ・ザ・センチュリー」。記念すべきセンチュリーカーに選ばれたのはフォード・モデルTだったが、それと並行して20世紀を代表する自動車人の選出も行われていたのを覚えているだろうか?


創業者部門に選出されたのはヘンリー・フォード。エンジニア部門はフェルディナント・ポルシェ博士、デザイン部門はジョルジェット・ジウジアーロ、そして経営者部門の1位に選ばれたのは、当時フォルクスワーゲンのCEOを務め、グループ拡大戦略の陣頭指揮を執っていたフェルディナント・カール・ピエヒであった。


1937年、ピエヒはオーストリア・ウイーンで黎明期のポルシェ設計事務所を財務担当者として支えたアントン・ピエヒと、フェルディナント・ポルシェ博士の娘(フェリー・ポルシェの姉にあたる)のルイーゼとの間に生まれた。


幼い頃から祖父の仕事場に入り浸り「ポルシェ」の誕生過程を目の当たりにするという英才教育を受けた彼は、ザルツブルクのVW工場で組み立て工として働いたのち、チューリッヒの工科大学に入学し機械工学の学位を取得。1963年にエンジニアとしてポルシェに入社する。


ヘルムート・ポッド、ハンス・メッツガーら気鋭のエンジニアたちの協力を得たピエヒは、将来のレースでの使用を見据えて911のフラット6をドライサンプ化させ、鋼板ラダーフレームの904の欠点を見抜き、オーソドックスな鋼管スペースフレームをもつオロン・ヴィラール・スパイダーを開発するなど精力的な動きを見せる。


そして65年に研究開発部門の主任技師に就くと、それまでの経験を生かしたレーシング・スポーツカーの開発を推進。その最終進化形というべき4.5リッター空冷12気筒を積むモンスター、917(ちなみに906から917までのホイールベースは2300㎜で同一である)は70年に悲願のル・マン24時間総合優勝をもたらした。


1969年のル・マン24 時間レースを見守る若き日のピエヒ(中央)。 翌年、ポルシェ917で悲願の優勝を果たした。 photo by Getty Images

自動車業界を変えた英断と才覚


一方で独善的かつ理想主義的な彼の手腕は、904開発責任者のハンス・トマラ技師の解任、床下ミッドシップに固執したビートルの後継車EA266の開発失敗など、様々な弊害や確執を生んだのもまた事実である。


1972年、ポルシェの経営から創業者一族が退く決定が下されたことで退任したピエヒは、メルセデス・ベンツのコンサルタントを経て、開発部長としてアウディ-NSU-アウトウニオンに移籍することとなった。


75年にルードヴィッヒ・クラウスの後任として技術開発部門の総責任者に就いた彼は、オンロード用フルタイムAWDシステム、クワトロの開発を推進、成功に導く。さらにアウディスポーツによるWRCでの成功、C3型100での空力ボディの開発、D2型A8でのオールアルミボディの採用など、様々な新機軸を打ち出しアウディ・ブランドの再構築に成功。


その実績を背景に88年にはアウディのCEOに就任することとなる。そして1993年、ピエヒはついにフォルクスワーゲンのCEOへと上り詰め、2002年にはフォルクスワーゲン・グループ監査役会の会長となった。


この時代に彼が主導した拡大、高級化路線、ブガッティ、ランボルギーニ、ベントレーなどの買収による業界再編劇は時として批判の対象にもなったが、彼が鬼籍に入った今、改めて82年にわたる足跡を振り返ると、ポルシェ・モータースポーツの成功も、アウディのブランド力向上も、VWの躍進も、ランボルギーニ、ブガッティ、ベントレーの再興も彼の英断と才覚なくしては実現しえなかったことに気づく。


そういう意味でもフェルディナント・カール・ピエヒは世紀を超えて記憶されるべき、孤高の自動車人であったのだ。

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文=藤原よしお

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