【6月12日 CNS】中国の首都であり歴史ある都市・北京市には、多くの著名人の旧居が点在している。近年、その中のいくつかの書斎が、新たに公共の読書空間へと改装され、市民が読書や休憩を楽しめる場として生まれ変わっている。

 北京魯迅博物館(Beijing Luxun Museum)にある中国の文学者・思想家である魯迅(ろじん、Lu Xun)旧居の一角には、「朝花夕拾」と名付けられた小さな読書スペースがあり、その前には魯迅の恩師・藤野厳九郎(Gunkuro Fujino)の胸像が静かに佇んでいる。この空間の運営者である顔麗華(仮名、Yan Lihua)氏によると、ここはもともと一般非公開の展示エリアだったが、改装によって現在のような姿に生まれ変わったという。

 魯迅が手植えした2本のライラックの木がちょうど100年を迎えることを記念し、今年4月初旬に北京市政府の改修を経てこの旧居が再公開された。「この2本のライラックはそのままの姿で残されています」と博物館スタッフの劉暢(Liu Chang)氏は話す。改修の目的は、来訪者により良い文化体験を提供するためだという。

 北京には魯迅が暮らした家が4か所あり、このライラックを植えた住まいは最後の居所だった。この場所で魯迅は『華蓋集』『華蓋集続編』『野草』の3冊の文集と、『朝花夕拾』に収められた一部のエッセイを執筆している。「現在の読書スペースの名称はそこからとっています」と顔麗華氏は語る。当時の混乱した政局のなかで魯迅はやむなく北京を去り、そのためこの旧居が読書スペースとして再整備された。

 旧居に隣接する「魯迅書店」は、書籍の販売、飲食、読書を一体化した空間で、改装によって規模が拡大した。「今では、コーヒーを飲みながら本を読むお客様がかなり増えました」と店主の羅勇(Luo Yong)氏は語る。改装中も営業を続け、魯迅旧居の隣という立地もあって多くの人が訪れたが、以前は実際に腰を据えて本を読む人は多くなかったという。

 魯迅は読書に対して独自の考えを持っていた。彼は『且介亭雑文・病後雑談之余』の中で、清朝乾隆帝の時代に編纂された『四庫全書』の限界を指摘している。紀曉嵐(紀昀)が編んだ同書は一時代を代表するものではあったが、宮中に秘蔵され、一般の学者では手に取ることも難しかったと述べている。

「当時、魯迅は北京で初めての公立図書館・京師図書館の責任者でした」と語るのは、旧居近くで40年以上暮らす住民の牛甡(Niu Shen)氏である。魯迅は1926年に北京を離れるまで、図書・文献の公開普及に尽力し、北京で初めての庶民向け図書館の設立にも携わった。現在の「朝花夕拾」読書スペースのすぐ隣には、当時の魯迅の蔵書室があり、彼が南方へ移る際にも12箱の蔵書がそのまま残されたという。

 劉暢氏は「清朝末期、北京には近代的な図書館が存在していましたが、一般市民は利用できませんでした」と話す。民衆が本を自由に読めるようになったのは、1912年以降のことだった。現在、京師図書館は中国最大規模の国家図書館へと発展しており、そこには魯迅の功績が大きく寄与している。

 実のところ、魯迅が北京に来たのもこの図書事業が理由のひとつだったという。当時、教育部に勤務していた魯迅は、公立図書館の設立に意欲を燃やしており、それによって多くの文献を収蔵すると同時に、大衆にも読書の機会を広く提供できると考えていた。劉暢氏「魯迅にとって、それは一石二鳥だったのです」と述べる。

 今では、魯迅の理念が新たなかたちで継承されている。魯迅の作品に登場する「文才に富み、稀書に親しんだ」紀曉嵐の旧居にある書斎「閲微草堂」も、無料の公共読書スペースとして新たな息吹を吹き込まれた。 中国でデジタル化が急速に進む中、情報の壁はすでに取り払われつつあるが、同時にこうした文化的な香りを漂わせるリアルな公共空間が、人びとの読書意欲を刺激する役割を果たしている。顔麗華氏は「電子書籍でも紙の本でも、心を落ち着けて読書に没頭できる場所は、誰にとっても必要なものです」と語った。(c)CNS/JCM/AFPBB News