三国時代の名軍師、諸葛孔明の生涯を追う
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【8月19日 Xinhua News】諸葛孔明(しょかつ・こうめい、181~234年)は、徐州琅琊(現在の中国山東省臨沂市)の出身で、三国時代の蜀国の宰相、政治家、軍師、文学者だった。字は孔明、名を亮といい、「臥竜(がりゅう)」とも呼ばれていた。
【写真特集】赤壁古戦場や白帝城、甘露寺も…写真で訪れる「三国志」の舞台 2020年9月10日 22:03 発信地:中国 [ 中国 中国・台湾 ]
▽三顧の礼
若き日の孔明は、戦乱を避けて南陽隆中(湖北省襄陽市、諸説あり)に隠せいしていた。当時同地に駐屯していた劉備(りゅう・び)が3度にわたり孔明の草庵を訪問し、やっと会うことができたというエピソードは有名。
軍師として迎えられた孔明は、戦乱の収束に向けて劉備に「天下三分の計」の戦略を説いた。
▽赤壁の戦い
北方を制し、皇帝を意のままに操った曹操(そう・そう)は、天下統一を虎視眈々と狙って南下。危機にさらされた劉備は、孔明を使者として南方の孫権(そん・けん)の下に赴かせ、同盟を結成して曹操を迎え討つよう説得させた。孫権・劉備連合軍は208年、荊州赤壁(湖北省赤壁市)での大戦で曹操軍を破ることに成功、これにより「天下三分」の形勢がおおむね固まった。
▽白帝城
赤壁の戦いの後、劉備と孫権は荊州の所属をめぐって対立を深めた。221年、劉備が蜀の皇帝として即位すると、孔明を丞相に任命した。孫権が蜀の大将、関羽(かん・う)を捕らえ処刑したことをきっかけに、劉備はついに孫権と決裂、開戦に踏み切る。しかし敗戦が続き、劉備は223年、白帝城(重慶市奉節県)で孔明に息子の劉禅(りゅう・ぜん)の補佐を託し、息を引き取った。
▽「出師の表」と最期
劉備の没後、孔明は劉禅の補佐として力を尽くし、国力の充実に努めた。雲南地方に遠征して異民族を抑えた後、統一を目指すべく魏に対する北伐を始めた。この時、劉禅に提出した、出兵の決意や国政運営の助言などをつづった「出師(すいし)の表」は、極めて高い文学的価値を持つ文章として知られ、中国の国語の教科書にも取り上げられた。
蜀軍は幾度にもわたる北伐で次第に疲弊していった。孔明は234年、最後の討伐の途中、五丈原(陝西省宝鶏市)で陣没、蜀の天下統一はついにかなわなかった。本人の意向で、遺体は漢中の定軍山(陝西省漢中市)に埋葬された。
▽成都・武侯祠
かつて蜀国の都だった四川省成都市には現在、「武侯祠」が建っている。別名を「漢昭烈廟」といい、もともとは劉備の陵墓で、後に孔明を祭る祠堂が廟内に移された。国内に現存する唯一の君臣合祀廟となっている。孔明は生前「武郷侯」に封じられ、死後は「忠武侯」と呼ばれたことから、人々は敬意を込めてこの廟を武侯祠と呼んでいる。
同市ではこのほど、第31回FISUワールドユニバーシティゲームズ夏季大会(成都ユニバ)が成功裏に閉幕し、世界的な知名度を高めた。同市は古き良き伝統文化と活気に満ち、「競技精神」を内包した魅力あふれる都市となった。(張明然)(c)Xinhua News/AFPBB News