【3月31日 Xinhua News】中国の重慶市文物考古研究院はこのほど、釣魚城遺跡の発掘調査でこれまでにない高い格式を持つ建築遺構を発見したと発表した。専門家は、宋・モンゴル戦争期の山城では前代未聞の規模と格式を持つ遺構だとしている。

 今回の発掘は主に釣魚城の護国寺と武道衙門(がもん)、皇宮の3カ所で行われ、発掘面積は914平方メートルに及んだ。城門や石壁などの遺構33カ所を新たに発掘し、各種遺物300点余りが出土した。

 今回の新発見は釣魚城范家堰南宋衙署(がしょ)遺跡に続く重大発見で、同エリアの宋代文化遺構の空白を埋め、宋・モンゴル戦争期の釣魚城の山城防御システム、区分配置、構造、機能を研究する上で新たな証拠をもたらした。今後の釣魚城遺跡の保護や国家考古遺跡公園の建設、世界遺産の申請を支える新たな要素にもなる。

 釣魚城は重慶市合川区を流れる嘉陵江、涪江(ふうこう)、渠江(きょこう)の合流地点に位置し、面積は2・5平方キロ。これまでに発掘された最も保存状態のよい宋代の古戦場遺跡とされる。

 宋・モンゴル戦争では、モンゴルのモンケ・ハン(第4代皇帝)の軍勢が釣魚城に迫り、長江を下って南宋を滅ぼそうとしたが、釣魚城で強い抵抗に遭い、モンケ・ハンは1259年旧暦7月に死去した。その後、モンゴルの諸王はハンの座をめぐり争いを始め、アジアやヨーロッパの戦場から各軍団が急遽撤退した。風前の灯火だった南宋も一時的に滅亡の危機を脱し、ユーラシア大陸の勢力構造も一変した。

  釣魚城の戦いは36年以上続き、歴史上で有名な防衛戦として知られる。南宋軍は山に立てこもることで不測の事態を防ぎ、要害に頼って守りを固める戦略を取り、釣魚城、奉節白帝城など数十の城を築いた。各城は自給自足の態勢をとりつつ相互に連携し、巨大な山城防衛システムを形成していた。(c)Xinhua News/AFPBB News