【2月21日 Xinhua News】中国で実施されている第2次青蔵高原総合科学調査でこのほど、チベット自治区(Tibet Autonomous Region)日喀則(シガツェ)市吉隆(キドン)県にある孔桑橋遺跡から出土した植物遺体と文化層堆積物の古DNAを分析した結果、インディカ米の炭化した穎果(えいか)や水稲のプラント・オパール(植物ケイ酸体)、インディカ米特有の遺伝子配列が見つかった。炭化稲の直接年代測定を行った結果、時期は8世紀ごろで、遅くとも唐代前期にはインディカ米が同高原南部に広まっていたことが明らかになった。

 同遺跡はヒマラヤ山脈南麓の吉隆溝に位置し、標高2676メートル。今回の調査で新たに人類活動の遺跡が見つかった。

 中国科学院青蔵高原研究所や蘭州大学、中国社会科学院考古研究所、西北大学、西蔵文物保護研究所などの研究者で構成される合同科学調査チームは、野外調査中に同遺跡の露出断面を採取。サンプルからは少量の土器片や動物の骨の破片、大量の植物遺体が得られた。

 水稲は世界三大作物の一つで、栽培種はアジアイネとアフリカイネの2種類に分かれる。アジアイネは世界各地に広く分布し、栽培面積と生産高ともにアジアが最大の地域となっている。アジアイネにはインディカ米とジャポニカ米の2種類の亜種がある。一般的に、長江中・下流域を起源とするジャポニカ米が4千年前に南アジア北部に広まり、現地で完全に栽培化される前の「原始インディカ米」と交配されたことでインディカ米が誕生。その後、インディカ米が東南アジアや中国南部に伝わり、現在に至るまで広く栽培されてきたと考えられている。

 しかし、インディカ米が中国に伝わった時期や経路については、今もさまざまな見解がある。

 研究プロジェクト責任者を務める蘭州大学の長江学者特別招聘教授、楊暁燕(Yang Xiaoyan)氏はこの点について、「孔桑橋遺跡から出土した炭化稲は、直接年代測定の結果、唐代前期のものと判明した。これは、『占城稲(チャンパ米)』が出現する前に、インディカ米が吐蕃(とばん)王朝とネパールを結ぶ『蕃尼古道』を通り、ヒマラヤ山脈を越えて中国に伝わったことを実証している。遺跡のある吉隆溝が位置する蕃尼古道は、唐の使節がインドに向かう際の公式ルートとされており、インディカ米もこの道を通って青蔵高原を越え、中国本土にもたらされた可能性が高い」との考えを示した。(c)Xinhua News/AFPBB News