【2月5日 Xinhua News】中国の河南省文物考古研究院は、三国志の英雄として知られる後漢時代の武将・政治家、曹操(そう・そう)の墓「曹操高陵」(同省安陽市)の西側で発見された宋元時代の建物基礎が、北宋時代に同陵のために設けられた守陵戸(墓守戸)だった可能性があると明らかにした。

 同研究院の周立剛(しゅう・りつごう)副研究員によると、曹操高陵の西200メートルの地点で宋元時代のれんが造りの地下排水施設と建築遺構が見つかり、多数の磁器や貨幣のほか、サイコロや碁石、陶球などの娯楽用具と建築部材が出土した。

 周氏は、出土磁器の年代から建物は北宋初期に建てられ、元代まで使用されていたと判断できると説明。うち、精美な器物と娯楽用具の多くは金代のもので、同時期にここで公共の娯楽活動が頻繁に行われていたことを反映していると語った。発見された排水施設は凝った造りになっており、れんがが整然と積み上げられた水路は数十メートルあると思われ、多くの排水路が交差する排水網を形成していたという。

 発掘により、排水施設と建築遺構が高陵の陵園配置と直接の関係がないことは裏付けられたが、遺構と出土遺物の特徴は北宋初期に設置されたという高陵の守陵戸を探す重要な手掛かりとなった。周氏も「建築遺構と排水施設の特徴や磁器の数と種類の多さを考えれば、建物は普通の住居ではない」と推測。竜頭形の釉薬陶器の建築部材は北宋時代の韓琦(かん・き)家族墓地や藍田呂氏家族墓地の祭祀(さいし)建築からも出土していると指摘し、建物が北宋時代の墓葬と祭祀活動に関係している可能性を示唆した。

「さらに文献記載と組み合わせれば、北宋時代に高陵に設置された守陵戸の所在地だった可能性がある」とも指摘。文献には唐の太宗(李世民、り・せいみん)が高句麗遠征の途中に高陵を参拝したことや、宋の太祖(趙匡胤、ちょう・きょういん)が963年に歴代の皇帝や著名人の墓に守陵戸を設置する詔勅を出し、高陵にも3戸が設置されたとの記載があると説明した。北宋が滅びて朝廷が南に移ると守陵戸も放棄され、建物も他の用途に転用されたのだろうとの見方も示した。

「出土遺物の特徴の変化も、守陵戸と思われる建物が北宋から金代にかけて大きく変化し、金代には公共の娯楽施設として使用されていた可能性を示している」とも指摘した。

 これまでの発掘で得られた考古学資料は現在、整理と調査が全て完了している。周氏は「今後の野外調査で今回の推測に多くの手掛かりがもたらされることが期待される。曹操高陵周辺の歴史的環境の変遷を研究するための新たな材料も得られるだろう」と語った。(c)Xinhua News/AFPBB News