【10月17日 Xinhua News】中国唐王朝の時代、ある詩人が黄河岸辺の楼に登った。北から南に流れる黄河は、蒲津に渡しを過ぎると、この楼と背後の蒲州城を抱き込むように東に流れを変え、海へ向かう。詩興が湧いた詩人は五言一首を賦す。

 白日依山尽、

 黄河入海流、

 欲窮千里目、

 更上一層楼。

 白日山に依って尽き、

 黄河海に入って流れる。

 千里の目を窮めんと欲し、

 更に上る一層楼。

 詩は楼によって作られ、楼は詩によって名をなした。詩人・王之渙(Wang Huanzhi)の「鸛鵲楼(かんじゃくろう)に登る」は、この地に「天下黄河第一楼」と呼ばれる鸛鵲楼があることを記憶させた。

 楼は山西省(Shanxi)永済市(Yongji)蒲州(ほしゅう)古城の西を流れる黄河の東岸にある。創建は南北朝時代の北周時代で、金とモンゴルの戦争で焼失した。鸛鵲(コウノトリ)がよく巣作りをしたことからその名が付いた。湖北省武漢市の黄鶴楼、湖南省岳陽市の岳陽楼、江西省南昌市にある滕王閣(とうおうかく)と並び中国四大歴史文化名楼と呼ばれる。

 改革開放政策が実施され、経済発展と文化整備が強化されると、鸛鵲楼の再建を望む声が高まった。1992年9月に専門家や学者ら100人近くが永済市に集まり、連名で「鸛鵲楼の再建」を呼び掛けた。永済市は97年12月に黄河河畔で工事を着工させ、再建プロジェクトが開始された。

 2002年9月26日、再建された鸛鵲楼は一般公開された。再建された楼は唐代の高台式楼閣を模しており、外観は3層、内部は5層で、高さは73・9メートル。一部に現代の工法や建材を用いた。

 一般公開から20年が経った今年、内部施設の改修工事が行われた。既存の建物はそのままに、各階に音と光の要素を加え、黄河文化や河東(山西省一帯)文化の要素を前面に押し出している。(c)Xinhua News/AFPBB News