【10月2日 Xinhua News】中国江蘇省(Jiangsu)無錫市(Wuxi)の鴻山国家考古遺跡公園内で見つかった春秋戦国時代の大型都市遺跡「呉家浜遺跡」は、試掘調査により都市の輪郭がおおむね明らかになった。都市には水路が縦横に流れ、当時の人々はイタリアのベネチアのように船で往来していた。

 鴻山遺跡は国家重点保護大遺跡で、第1次国家考古遺跡公園リストに登録されている。全体の面積は7・5平方キロで、これまでの調査で主に春秋戦国時代の墓140基余りが確認された。2002~03年に実施された春秋戦国時代の貴族墓7基の緊急発掘調査では、2300点余りの遺物が出土し、呉越地区(江蘇省・浙江省一帯)の陶磁器史、音楽史、工芸美術史に多くの実物資料をもたらした。

 無錫市文物考古研究所の李光日(Li Guangri)副所長は「墓があれば必ず都市もある」と語ったが、鴻山遺跡ではこれまで、墓地は発見されたが都市は見つからず、考古学者の多くが腑に落ちなかった。呉家浜遺跡の発見はこの問題を解決した。

 呉家浜遺跡の発見は偶然の産物だった。19年末に地元の農民が水路を開削していた際に大量の土器片を発見。翌年に無錫市文物考古研究所が調査を実施し城壁の遺構を発見した。21年に3地点で実施した発掘調査では、大量の生活用土器と灰釉陶器が出土した。

 発掘調査は現在も続いているが、李氏によると、出土遺物の特徴分析と放射性炭素年代測定により、遺跡の年代は春秋時代後期から戦国時代初期の都市遺跡と暫定的に判断された。

 事前調査では、都市が内城と外城、郭城に分かれており、敷地面積は約80万平方メートルだと分かった。内城の敷地面積は約8・3万平方メートルで、西側と南側に城壁を築き、東側と北側は川を障壁としていた。東側を流れる川は伯瀆河(はくとくが)といい、伝説では中国最初の人工運河とされる。

 李氏によると、遺跡は太湖から直線距離で10キロ余り離れているが、事前調査と発掘調査の状況から見て、春秋戦国時代には城内を水路が縦横に流れ、水路が主な交通手段になっていた。内城の南西角にある城門も水路で出入りしていたという。

 取材で訪れた発掘現場では、発掘を終えた一部の城壁の断面、灰じんと柱穴、二つの井戸が残る生活エリアの遺構を見ることができた。城壁の厚さは基部が16メートル、上部が7メートルで、現存する高さは1メートル。生活エリアでは火を使った痕跡のほか、多くの土器製の生活用の器と少数の灰釉陶器が出土したことから、専門家は厨房のような建物ではないかとみている。この建物の周辺では二つの高位者用建築遺構の存在も確認されているが、現時点で発掘は実施されていない。

 李氏は、すでに調査した都市エリアからは99本の井戸が見つかり、深さは5~6メートルあったと説明。井戸の数からみて多くの人が住んでいたのではないかとの見方を示した。

 鴻山遺跡でこれまで発掘された最大の墓は「邱承墩(きゅうじょうとん)」と呼ばれる戦国時代の大型貴族墓だが、被葬者が誰なのかは判明していない。呉家浜遺跡の発見は、この謎の解明につながるほか、呉越文化を研究する上でより多くの実物資料をもたらすと期待される。(c)Xinhua News/AFPBB News