【6月21日 Xinhua News】中国には河南省(Henan)殷墟の婦好(ふこう)墓や陝西省(Shaanxi)の周原遺跡、四川省(Sichuan)の三星堆遺跡など、海から遠く離れた場所にありながら大量の貝殻が出土する遺跡が少なくない。

 安徽省(Anhui)合肥市(Hefei)の中国科学技術大学では現在、学際的な科学技術考古学チームが貝殻の遡及(そきゅう)研究を実施している。

 同大の科学技術考古学実験室には、大きさや色、形が異なる古い貝殻がある。これらは、河南省安陽市(Anyang)や四川省広漢市(Guanghan)など国内の複数の遺跡から集められた。中でもキイロダカラと呼ばれる巻貝が多い。

 動物考古学が専門の同大人文学院科学技術史・科学技術考古学部の王娟(Wang Juan)副研究員は、この種の貝は中国であれば台湾と香港、海南、世界的にはインド洋から太平洋の暖かい海に広く分布していると説明した。

 小さな貝殻はかつて、富と権力の象徴だった。同学部の范安川(Fan Anchuan)副教授によると、中国では新石器時代に貝殻が装飾品として使われるようになり、商(殷)・周時代には甲骨文や青銅器の銘文に「貝」の字が頻繁に出現するようになった。

 范氏は「殷商時代の遺跡からは膨大な量のキイロダカラが出土している」と指摘。考古資料の時間的・空間的分布データによると、キイロダカラが出現したのは新石器時代後期で、商周時代に最も盛んに使われた。分布は中原地域(黄河中・下流域)に集中していたという。春秋時代になると徐々に減少したが、秦が貨幣としての貝を廃止するまで続き、一部の地域ではさらに長い期間にわたり流通した。

 貝は当時、量が少なく入手が困難で、摩耗せず、持ち運びも便利で計量もしやすかったため、貨幣の材料に適していた。キイロダカラは成体でも2センチ程度で、大きさも重さも似通っており、穴を開け、ひもでひとつなぎにして使うことができた。文献の記載では、ひとつなぎにした貝を数える単位に「朋」が用いられた。范氏は「現在の価値に換算すれば、1朋の貝で数ムー(1ムー=約667平方メートル)の美田を買うことができた」と説明した。

 興味深いことに、当時の人々は知恵を絞って貝を模造していた。材料は骨やカラスガイの殻、玉石、トルコ石、青銅などさまざまで、いずれもよく似ていた。王氏は「模造貝は必ずしも通貨として使われたわけではない。装飾品にしたほか、一部は貝の代わりに副葬品にしたのだろう」と語った。

 貝そのものは小さな遺物だが、そこに文明の起源を探る秘密が隠されている。范氏は、環境考古学の観点から見れば当時の地理や気候など環境情報を伝えるものであり、文化研究の観点から見れば、異なる地域や文化間のコミュニケーションや交流を示すことができると指摘。中原(黄河の中下流域)と西北地区、西南地区、さらには東南アジアや南アジアとの間の古代の人々の移動と交易のルート図が隠されていると説明した。

 同大の科学技術考古学チームはここ数年、世界各地の現代の貝殻標本や中国の各時代、各地域の貝殻遺物を収集。同大の地球化学や環境科学、生命科学、化学・材料科学などの専門家と協力し、現代と古代の貝殻標本バンクとデータベースを構築している。高精度な年代測定、微量元素と同位体のトレーシングなどの技術、地球化学ベースのデータベースを用いて時代区分や遡及追跡の角度から新たな情報を引き出し、学際的方法で考古学を支援している。

 王氏は「遺跡の貝殻がどこから来たのか。どのように山や海を越えたのか。これらの疑問は人を強く引き付ける」と語った。貝殻が産地から長距離を直接輸送された可能性、または異なる地域や文化を経由して交易による交換を重ねてきた可能性の両方を指摘した上で「新興テクノロジーによって、貝殻に隠された秘密はいつか解明されるだろう」と述べた。(c)Xinhua News/AFPBB News