【記者コラム】「地獄へ(再び)ようこそ」 ウクライナ侵攻で開くサラエボの傷
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【6月5日 AFP】ロシアによるウクライナ侵攻は、欧州における第2次世界対戦(World War II)後最悪の内戦となったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を経験した人々のつらい記憶を呼び覚ました。当時取材に当たったAFP記者、ソーニャ・バカリッチ(Sonia Bakaric)が、生々しくよみがえるトラウマを書き留めた。
■仏パリ発
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争開始から30年過ぎたが、その残虐性は決して忘れることはできない。ウクライナ侵攻で市民が同じように苦しんでいるのを見て、ユーゴスラビア崩壊後に起こった最も悲惨な紛争の記憶が鮮やかによみがえってきた。
ウクライナの首都キーウと、近代史上最長の包囲を経験したボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、飛行機で小一時間の距離だ。
あの地獄が今、ウクライナ南部マリウポリ(Mariupol)などロシアに包囲された都市で起こっている。
ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアから独立した1992年春の記憶は、今も色あせることがない。
セルビア人の大多数は、独立を望んでいなかった。一方、イスラム教徒のボスニャク人とクロアチア人は、セルビア人による支配を望まず、独立を希望していた。異民族同士で結婚している市民も多く、家族は引き裂かれた。
私はクロアチア人とボスニャク人の両親の元、フランスで育った。パリのソルボンヌ大学(Sorbonne University)で国際法と欧州の法律を学び、 卒業したばかりだった。
卒業後はクロアチアの首都ザグレブに移り、フリーランスのジャーナリストとして働くことを決めた。1993年にAFPザグレブ支局に入社し、7年働いた。この支局は、旧ユーゴスラビアを構成していた国々の実質的取材拠点となった。
第1次世界大戦(World War I)のきっかけとなった事件が起きた街、サラエボでの行進は日ごとに膨れ上がり、人々の感情も高まっていた。
この日の午後、2人の女性が死亡した。内戦の最初の犠牲者だ。1人はボスニャク人、もう1人はクロアチア人で、街を囲む丘から狙撃された。サラエボの狙撃手の非道ぶりは、瞬く間に広く知られるようになる。
世界は崩壊した。パニックと恐怖。街を包囲するセルビア人勢力による砲撃が始まった。どちらかの側に付くことを拒否した人たちは脱出を試みた。
セルビア人勢力とユーゴスラビア人民軍(JNA)によるサラエボ包囲は、内戦開始からひと月もたたない5月2日に始まった。包囲は近代史上最長となる1425日続いた。市民はわなにかかったネズミのように閉じ込められた。
セルビア人勢力は丘から集中砲火を続けた。マリウポリと同じように、サラエボの水や食料、電気、医薬品の供給は絶たれた。ウクライナの人々の窮状を耳にすると、まるで遠い親戚の話のように感じる。彼らの経験は、ボスニア・ヘルツェゴビナの経験とそれほどよく似ているからだ。
「地獄へようこそ!」
サラエボ包囲から1年過ぎたころ、誰かが市内の壁に書き付けた。1万1514人が死亡、6万人が負傷したこの悪夢を表現するのにふさわしい言葉だ。
おびただしい弾痕が残る車の残骸の山は、食料や燃料を求めて外出する市民の防護壁になった。道を足早に渡る人が狙撃手の標的にならないよう、チトー元帥通り(Marshal Tito Street)にはシーツが張られた。
給水車や給水栓に水をくみに行き、狙撃され亡くなった人も多い。遺体はすぐに車の陰に引きずられ、病院の遺体安置所に運ばれた。
1984年に冬季五輪の開催地にもなったサラエボの厳しい冬は、さらなる苦難をもたらした。まきがなくなると、本を燃やさざるを得なくなった。まき不足が更に悪化すると、洋服だんすに遺体を放置することすらあった。大勢が埋葬された五輪会場跡地には、見渡す限り墓が並んでいた。
サラエボ市民は、世界に支援を求めた。文明社会が虐殺を止められないことが、皆、信じられなかった。
犠牲から逃れることができた地はなかった。セルビア人勢力は、身も凍るような民族浄化作戦を開始した。男性たちは自宅にいる家族の目の前で撃ち殺された。次々と村が焼かれ、虐殺が繰り返された。
「浄化」された地域に残る人々 は、水道も電気もない19世紀の農民のような生活を送り、他民族の古い友人や隣人は、殺されるか避難していなくなっていた。
1993年にはクロアチア政府が支援するクロアチア人勢力と、ボスニャク人が多数を占める政府軍が衝突。「内戦の中の内戦」が起こった。
戦闘は「スレブレニツァ(Srebrenica)の虐殺」まで続いた。国連(UN)の保護下にあったはずのスレブレニツァがセルビア人勢力に制圧され、子どもを含むイスラム教徒の男性8000人以上が殺害される、この内戦で最悪の事態となった。
私にとってこの紛争は、終わりのない墓参りのようなものだった。家族や友人を亡くし、跡形もなく消えてしまった知人もいた。隣人や幼なじみを殺すよう命じられるのを避けるため、カナダやオーストラリアに亡命した友人もいた。
AFPは常時取材班を入れ替えながら、紛争を初めから終わりまで取材した。ウクライナでも同様の体制がとられている。ただ、当時現地にいた多くの記者はヘルメットや防弾チョッキを持っていなかった。持っている人も、そのころの品は重すぎて走りづらく着用しないことも多かった。身を守るものを何一つ持たな民間人を取材する際に、自分だけ防弾チョッキを着ることを気まずくも感じた。
車体に白いテープで「TV」や「Press(報道)」と書いたが、身を守る効果は気休め程度だった。ただ単に、「撃たないで!」と叫んでいるようなものだ。当時、携帯電話はまだ存在せず、 長距離を移動し、ホテルや郵便局の電話から原稿を読み上げ、書き取ってもらうこともあった。
セルビア人、クロアチア人、ボスニャク人という3勢力が流すプロパガンダにも注意を要した。 裏付けのためそれ以外の情報源が必要で、包囲された地区の国際情報源に電話を掛けたり、目撃者に話を聞いたりして丸一日が過ぎることもあった。
市民に腕をつかまれ、「ここで何が起きているか世界に伝えてほしい」とあえぐように言われたことがある。しかし、無数の記事も写真も、紛争の流れを変えることはできなかった。何人ものジャーナリストが命を落としたにもかかわらず。
紛争開始から30年がたった今も、子どもや親族を亡くし、打ちのめされた女性たちが神に「よくご覧になってください」と懇願する姿を忘れられない。廃虚となった家の庭に散らばった結婚写真や幸せそうな家族写真、耐え難い死臭。まだすべて覚えている。
1995年12月のデートン(Dayton)合意で、ボスニア・ヘルツェゴビナは、セルビア人の「スルプスカ共和国」と、クロアチア人とボスニャク人の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」の二つに分割された。今日、両者の隔たりはかつてなく広がっており、両市民間の不信感は今も大きい。
ウクライナ侵攻はこうした古いトラウマを呼び覚ました。サラエボでは、ウクライナ侵攻開始直後に、小麦粉のパニック買いが起こるほどだった。核攻撃に備えてヨウ素剤を買い求める人もいた。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の退役軍人の一人は「あそこの建物は、まるで私たちの建物のようだ」と私に話した。何時間も、ニュース専門チャンネルにくぎ付けになっているという。
「台所の窓から戦争を見ているようだ。悪夢にうなされ、叫んで飛び起きる。怖いんだ」
サラエボ市民の多くは、あの包囲された時代に引き戻された錯覚に襲われている。
このコラムはAFPのパリ支局の記者、ソーニャ・バカリッチが執筆したものを、仏パリのミカエラ・カンセラキーファー(Michaela Cancela-Kieffer)とフィアチラ・ギボンズ(Fiachra Gibbons)が編集し、2022年5月1日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。