【5月18日 AFP】レシア・コステンコ(Lesia Kostenko)さん(51)は、ウクライナ兵の息子、フリブ・ストリジコ(Glib Stryzhko)さん(25)がロシア軍の捕虜になったことは知っていた。だが、重傷を負った息子がこっそり電話をかけてくるまで、どこにいるのかは分からなかった。

「見張りの兵士が息子を哀れんでくれた」とコステンコさんはAFPに語った。

 ストリジコさんは南東部マリウポリ(Mariupol)での戦闘で、イリイチ(Ilych)製鉄所に駐留していた部隊に所属していた。激戦で命を落としかけ、捕虜となり、最終的にロシアに連行された。

 そして、ある日突然、捕虜交換のため飛行機に乗せられ、ウクライナに帰された。

 帰還へ向けた紆余(うよ)曲折は、ソーシャルメディアへのある投稿から始まった。

 ウクライナの親ロシア派がメッセージアプリのテレグラム(Telegram)に開設しているチャンネルに掲載された捕虜のリストの中に、ストリジコさんの写真があるのを戦友が発見。コステンコさんに知らせた。

 コステンコさんは恐怖におののきながらも、息子が生きていることを知っていくらか希望を抱いた。「戦友は、わが家の電話番号を知っていた。息子が教えていた。まるで、こうなることを予期していたかのように」

■ロシア側は否定

 ストリジコさんは4月10日、戦車の砲撃を受けてがれきの下敷きとなった。所属部隊に救出されて病院に運ばれたが、そこでロシア軍に捕らえられた。

 ストリジコさんは現在、南部ザポリージャ(Zaporizhzhia)市の病院で骨盤、顎、片目の大けがの治療を受けている。

 ロシア軍の捕虜になってからは、あちこち移動させられたと語った。まず連れていかれたのは、ロシアとの国境に近い南東部ノボアゾウスク(Novoazovsk)だった。「病院で横になっていたが、まともな治療はされなかった」

 約1週間後、東部ドネツク(Donetsk)の病院に移された。そこで、驚くべきことに、自宅に電話をかける機会を得た。

 連絡を受けた家族は、ストリジコさんの解放を目指し、ウクライナ政府への働き掛けを始めた。イリーナ・ベレシチューク(Iryna Vereshchuk)副首相は、「閣僚として手助けしてほしいと、母親や兄弟、友人たちから連絡があった」と話す。

 ベレシチューク氏は、ストリジコさんの身柄をロシア人捕虜と交換するようロシア側に圧力をかけた。だが、ロシアは捕虜の中にストリジコさんがいることをなかなか認めなかった。

 ベレシチューク氏が、ストリジコさんがドネツク15番病院に入院していることを把握しているとロシア側に突きつけたことから、「ロシア側は身柄引き渡しに応じざるを得なくなった」という。

 ドネツクで1週間ほど過ごした後、ストリジコさんは再びロシア兵によって移動させられた。次の行き先は刑務所だと言われた。毛布に包まれた状態で運ばれ、バスの床に寝かせられ、とても痛い思いをした。しかし、結局、重傷のため退院させられなかったようだと語った。

「しばらくバスの中にいた。それから救急車に押し込まれ、ロシア国境に向かった」とストリジコさん。目的地は車で1時間ほどのロシア南部タガンログ(Taganrog)だと聞かされた。