■「どうしてロシアへ行かないんだ」

 避難の旅は出だしから「大変だった」とアンナさん。「自分で荷物を運ばなければいけなくて、とても重かった」

 初日にエウヘンさんが3輪の台車を見つけてからは、ずっと楽になった。一家は、さびてきしんだ音を立てる台車を「黄金の荷車」と呼んだ。

「妻が末娘の乗った三輪車を押し、私は荷物を載せた台車を押した。荷物の上に子どもの1人が座ることもあった」とエウヘンさん。残る2人の子どもはエウヘンさんと並んで歩いた。

 4泊5日の旅の間、一家はロシア軍の検問所を幾つも通過した。ロシア兵には、親戚のところに向かっていると説明した。敵視せず、手を貸そうとさえした兵士もいた。ただ、「どこから来た? マリウポリから? なぜこっちへ行くんだ。どうしてロシアへ行かないんだ」と毎回問われたという。

 夜は、道路沿いの民家に泊めてもらった。受け入れてくれた地元の人は、十分な食事も用意してくれた。

 日中は、何があろうと先へ進んだ。

 ザポリージャから約100キロ離れたロシア軍の占領下にある町ポロヒ(Polohy)を歩いていた時、一家に幸運がほほ笑んだ。野菜を売りにザポリージャへ向かう途中のドミトロ・ジルニコフ(Dmytro Zhirnikov)さんが、車を止め、声を掛けてくれた。

 125キロ歩いてきた一家は、ジルニコフさんの古い小型トラックで旅を終えた。

 ジルニコフさんは、一家がロシアの支配地域を脱出してウクライナ兵を見たときの喜びようをよく覚えている。「一つ目の検問所を通過すると、みんな泣き出した」

「私たちが目指したのは、子どもたちがウクライナで暮らせるというたった一つのことだ。この子たちはウクライナ人だ。他の国で暮らすなんて考えられない」とテチアナさんは強調する。

 一家は22日、わずかな私物と共に、西部リビウ(Lviv)行きの満員列車に乗り込んだ。西部の都市イバノフランコフスク(Ivano-Frankivsk)に移り住み、生活を立て直そうと考えている。

「経験したことは決して忘れられないし、忘れてもならない。けれど、元気を出して、子どもたちを育てていかなければ」とエウヘンさん。

 アンナさんは、地獄と化したマリウポリから逃れた後の素朴な願いを口にした。「あんなふうじゃない町で暮らしたい。もちろん、ウクライナで」 (c)AFP/Joris FIORITI