【4月12日 Xinhua News】兵馬俑と言えば、多くの人は中国陝西省(Shaanxi)西安市(Xi'an)の驪山(りざん)の麓にある世界八大奇跡の一つ、秦始皇帝兵馬俑を思い起こす。実際には西安市の隣にある咸陽市(Xianyang)で、秦始皇帝兵馬俑よりも9年早く、中国考古会を驚嘆させた兵馬俑が見つかっているが、これを知る人は少ない。それは「三千人馬」と呼ばれる前漢時代の兵馬俑で、今は咸陽博物館に展示されている。

 博物館で実物を見ると、前漢時代の軍隊の威容が伝わってくる。兵馬俑は歩兵陣と騎馬方陣からなり、軽騎兵は弓や石弓を持ち、背には矢筒、重騎兵は鎧兜(よろいかぶと)に身を固め、手には戟(げき、枝刃の付いた矛)を持つ。軍馬は目を見開き、耳を立て、鼻孔と口をわずかに広げて臨戦態勢を取っている。

 同博物館の呉暁璇(Wu Xiaoxuan)研究員は「前漢の彩色兵馬俑と秦兵馬俑を比べた際の直観上の最も大きな違いは、実際の人の身長の3分の1程度しかないことだ。平均身長は50センチで秦兵馬俑よりはるかに小さい」と説明した。

 前漢兵馬俑は、大きさだけでなく顔の作りにも秦始皇帝兵馬俑と大きな違いがある。秦始皇帝兵馬俑はそれぞれが異なる顔をしているが、多くが関中(陝西省渭水盆地一帯)地区の特徴を持っているのに対し、前漢兵馬俑は顔部の形状から関中と隴西・天水(甘粛省)地区、巴蜀(四川省)地区の三つの地域に分けることができた。これは漢代初期に兵士が集められた地域を示している。

 これらの兵馬俑は1965年8月24日、咸陽市東郊外の漢長陵(高祖劉邦の陵墓)の敷地内にある楊家湾村で、村民が土地をならしている時に発見された。考古学者によるその後の調査で、陪葬坑10基とレンガ坑1基から兵士俑1965体、騎馬俑583体、盾の模型千点近くが出土したことから「三千人馬」と呼ばれる。中国で彩色兵馬俑が大量に出土したのは初めてで、1960年代の中国考古学界を驚嘆させる大発見になった。

 兵馬俑が出土した副葬坑の北には漢代の大墓が二つあり、いずれも長陵陪葬墓区の周氏陂(しゅうしは)内であることとから、考古学者は副葬坑の主墓の被葬者が前漢前期の政治家・武将、周勃(しゅう・ぼつ)または周亜夫(しゅう・あふ、周勃の子)ではないかと見ている。

 呉氏は「発見から半世紀、これらの兵馬俑は漢代の埋葬制度や服飾制度、彫刻芸術などを研究する上で極めて貴重な実物資料となってきた。十数カ国・地域でも展示され、文化交流の重要な担い手になっている」と語った。(c)Xinhua News/AFPBB News