【2月22日 東方新報】北京冬季五輪が17日間の日程を終えて閉幕した。北京は2008年に夏季五輪が行われており、五輪史上初めての「ダブル五輪シティー」となった。その2つの五輪について、中国における意味づけは大きく変わった。

 2008年当時、中国では北京五輪の公式スローガン「一つの世界、一つの夢」とともに、「百年の夢を実現する」というフレーズがよく使われた。近代五輪が中国に初めて広く紹介された清朝末期の1908年、ある学生が雑誌「天津青年」に投稿した。「私には3つの問いがある。中国初の五輪選手はいつ誕生するか。中国が選手団を送り出すのはいつか。そして中国で五輪が開催されるのは、いつか」

 中国選手が初めて五輪に出場したのは中華民国時代の1932年ロサンゼルス大会。劉長春(Liu Changchun)選手がただ1人、男子陸上100メートルと200メートルに出場した。選手団は次の1936年ベルリン大会に派遣。そして、中国が欧米列強や日本になすがままにされていた時代に発せられた「3つの問い」から、ちょうど100年。ついに中国で五輪が開催されることに、国民は奮い立った。

 中国は2001年の世界貿易機関(WTO)加盟以降、先進国の市場と結び付きを深め、海外企業の投資を受け入れ、「世界の工場」として発展していた。北京五輪は世界の大国に仲間入りする「聖なる儀式」だった。

 巨大な鉄鋼がアメのように曲がって交差するメイン会場・国家体育場(通称・鳥の巣)。その隣には、水の泡が連なったような外観の国家水泳センター(通常・ウオーターキューブ)。世界の度肝を抜こうとするように、巨額の予算を投じて施設が新設された。

 開会式は2008年8月8日午後8時8分8秒(「8」は中国で最も縁起が良い数字)に「鳥の巣」で始まった。指揮したのは、中国映画界の巨匠・張芸謀(チャン・イーモウ、Zhang Yimou)監督。中国の歴史・文化の偉大さを示す演出などを4時間にわたり展開した。聖火リレーの最終ランナーとなった中国の国民的英雄・李寧(Li Ning)氏は、ワイヤでつり上げられ空中を走るように移動し、巨大トーチに点火した。李氏は1984年ロス五輪の体操個人種目で金メダル3個を獲得。「体操王子」と呼ばれ、引退後は中国ナンバーワンのスポーツ用品メーカーを創設した人物だ。この人選も「躍進中国」を象徴したと言える。

 そして14年の時を経て行われた北京冬季五輪は、夏季五輪から様相を一転した。同じ「鳥の巣」で再び開会式の総指揮を努めた張芸謀監督は派手な演出を選ばず、聖火リレーのトーチをそのまま使い、「聖火台に点灯しない」という意外な方法を選んだ。張監督は開会式後のインタビューに「環境保護の概念が広まるにつれ、燃え盛る炎の形はいつか変えなければならないと考えていた」と語った。聖火リレーの最終ランナーも著名人ではない若手選手が選ばれた。

 巨額の予算を注ぎ込んで中国の国力をアピールした夏季五輪に対し、冬季五輪は「省エネ、エコロジー、持続可能性」の理念を実践した。夏季五輪の施設の再利用が多く、競泳などが行われた国家水泳センターをカーリング会場に、バスケットボールが行われた五棵松体育館をアイスホッケー会場に変えた。会場の仕様はどちらにも転換できるよう設計しており、特に五棵松スポーツセンターはバスケット場とアイスホッケー場を6時間で切り替えできる。また、最先端技術を駆使して工事段階や運営中の二酸化炭素(CO2)の排出も最大限抑えた。冬季五輪に使われる電力はすべて風力、太陽光など再生可能エネルギーでまかない、CO2の排出を実質ゼロにするカーボンニュートラルを実践した。

 夏季五輪の後も経済成長を続ける中国は国内総生産(GDP)で世界第2位に躍り出て、「世界の工場」から「世界の市場」に変貌した。人工知能(AI)、ビッグデータ、モノのインターネット(IoT)などの先端技術は世界トップクラスに発展している。経済大国の仲間入りをしようと躍起になっていた2008年夏季五輪から14年。中国は今や世界経済をリードし、持続可能な発展のモデルを示す立場になった。北京冬季五輪はそれを示す「聖なる儀式」となった。(c)東方新報/AFPBB News