■カブールを離れる機内では外国人も泣いていた

 長い間、武装勢力から狙われてきたホサイニ氏がアフガニスタンを去ったのは、最近の報道内容がタリバンの怒りを買ったからだという。ホサイニ氏は外国人ジャーナリストと共に、タリバンが女性や少女を組織の戦闘員らと強制結婚させているという記事を書いた。

 ソーシャルメディア上で脅迫され、2人はカブールを脱出するための航空券を予約した。ホサイニ氏が出発したのは、タリバンのカブール制圧が確実となった8月15日の朝だ。

「カブール陥落前の最後の民間便が離陸したとき、私たちは泣いた」と話すホサイニ氏。「多くの仲間、外国人まで泣いていた。私と同じく、皆、二度とカブールには帰れないと思ったからだ」

 カブールはその後、悲惨な状況に陥り、8月26日の空港付近での自爆攻撃で、ホサイニ氏がピュリツァー賞を受賞した写真より「さらにひどい」光景が繰り広げられた。

「(26日の)あの写真は、すさまじいものだった。小さな運河であんなに大勢の人が殺され、その血が運河にたまるなんて、思いもしなかった」

■女性記者による取材は「もう不可能」

 亡命中のホサイニ氏の元には、アフガニスタンのメディアが置かれた状況を口々に嘆くジャーナリストらの声が届いている。

 アフガニスタンのテレビキャスターの「顔」と言える存在は、最近まで女性だった。著名な女性ジャーナリストの一人は、「タリバンは、自分のオフィスから外出することすら許してくれない」と語ったという。

「女性が外を歩けないのは確かだ。女性ジャーナリストはマイクを持って取材に行くが、それはもう不可能になっている」とホサイニ氏は続ける。

 2001年9月11日の米同時多発攻撃をきっかけに、当時のタリバン政権が崩壊してから20年。この間、アフガニスタンではメディアの活発な活動が見られたが、今回の最大の損失は、そうした活動のほとんどが消散したことだと言ってもいいかもしれない。

「つまり、私たちはすでに殺されたも同然だ」とホサイニ氏は語る。自身は、20歳になるまでのほとんどを隣国イランで難民として暮らし、米同時多発攻撃の後にアフガニスタンに帰国した。

「アフガニスタンにすごく帰りたい。そこに自分の家があり、思い出もある。写真を通じて、アフガニスタンがますます好きになり、アフガニスタンのおかげで写真を撮ることも好きになった。私は最善を尽くした」 (c)AFP/Danny KEMP