【6月7日 AFP】1945年にナチス・ドイツ(Nazi)のアウシュビッツ・ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)強制収容所を解放した赤軍(Red Army)部隊の隊員で、唯一存命していたダビト・ドゥシュマン(David Dushman)氏が5日、死去した。98歳。

 戦後はフェンシング選手・コーチとして国際的に活躍した同氏の訃報は、国際オリンピック委員会(IOC)を通じて発表された。

 ドゥシュマン氏は1945年1月27日、ナチス占領下にあったポーランドのアウシュビッツ強制収容所を囲む電気柵をソビエト連邦軍のT-34戦車でなぎ倒し、収容者の解放に一役買った。当時についてドゥシュマン氏は2015年、南ドイツ新聞(Sueddeutsche)に「アウシュビッツについてはほとんど何も知らなかった」が、「いたる所に白骨遺体があった」のを目撃したと語っている。

「人々はよろよろとバラックから出てきて、遺体の間に座り込み、横たわった。ひどかった。私たちは携行していた缶詰を全て与え、すぐさまファシストどもの追撃に向かった」

 アウシュビッツでどれほどすさまじい虐殺が行われていたかを知ったのは、戦後のことだったという。

 ドゥシュマン氏の訃報を受け、独ミュンヘン(Munich)とオーバーバイエルン(Upper Bavaria)地区のユダヤ人コミュニティーを代表するシャルロッテ・クノブロッホ(Charlotte Knobloch)氏は、「『アウシュビッツの英雄』として強制収容所を解放した一人で、数えきれないほど多くの人命を救った」と哀悼の意を表した。

 ナチスのホロコースト(Holocaust、ユダヤ人大量虐殺)で殺害された約600万人のうち、100万人以上がアウシュビッツで命を落とし、その多くはガス室で殺された。被害者には同性愛者や少数民族ロマ(Roma)、捕虜となったソ連軍兵士も含まれる。

 ドゥシュマン氏の所属部隊は69人が激戦を生き残った。ドゥシュマン氏は重傷を負ったが、IOCによると戦後は旧ソ連でトップクラスのフェンシング選手となった。1952〜88年には旧ソ連代表女子チームのコーチを務め、1972年のミュンヘン五輪ではパレスチナ過激派組織「黒い九月(Black September)」によるイスラエル選手団襲撃事件を目撃した。(c)AFP