【6月17日 AFP】1964年の東京五輪は、第2次世界大戦(World War II)の敗戦と荒廃から、日本が国際舞台へ華々しく復帰することを示す出来事だった。

 アジア初の五輪でもあり、近代日本の象徴となる新幹線の開業など、戦後の東京の復興と技術大国としての日本の台頭、それにふさわしいインフラの整備を世界にアピールする機会でもあった。

 開会式6日前のAFPの記事には、「日本にとって歴史的な一週間が始まろうとしている。日本がこれほど多くの外国人を歓迎することを望むのは、いまだかつてないことだ」と書かれている。

 似たような希望を持っていた2020年東京五輪は、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)によって史上初めて1年延期となり、さらに海外客受け入れの見送りも決まるなど、難しい状況となっている。

 しかし国際刑事警察機構(インターポール、InterpolICPO)のデータによれば、1964年大会で日本は2万人の海外客と6348人の外国人選手、1500人の関係者と2000人の記者を受け入れた。

 大勢の人の流入に備え、日本はホテルの客室数を1.5倍に増やし、四つの五つ星ホテルなど、多くのホテルを新設した。世界に広まった「ジャストインタイム」の製造哲学を体現するかのように、36の主要会場は開会式の1週間前に完成した。

 その一つである日本武道館は、五輪初採用となった柔道用に建設された会場だった。同じく大会の顔となる国立代々木競技場(Yoyogi National Gymnasium)は、建築界で最高の栄誉とされるプリツカー賞(Pritzker Architecture Prize)を後に受賞する丹下健三(Kenzo Tange)氏の設計だった。

 そして、聖火台に火をともす最後の聖火ランナーは、広島に原爆が投下された1945年8月6日に生まれた坂井義則(Yoshinori Sakai)氏が務め、戦後日本の平和主義を強く印象づけた。