【4月5日 AFP】2011年3月11日。世界観測史上最大級の地震が日本の東北地方の近海で発生し、それによって引き起こされた大津波が原子力発電所を襲い、メルトダウン(炉心溶融)を誘発した。

 AFP東京支局は素早く取材態勢を整え、現地に向かった。以後何年にもわたり、記者とカメラマン、ビデオジャーナリストたちは、被災した東北地方から報道を続けてきた。約1万8500人の死者・行方不明者を出したあの大災害から10年の節目に、AFPは再び現地に足を運んだ。

 今回の取材チームのうち4人は、災害発生直後の現場からのAFPの報道にも携わっていた。ペン記者の伊藤真悟(Shingo Ito)と檜山浩(Hiroshi Hiyama)、カメラマンの野木一弘(Kazuhiro Nogi)、そしてビデオジャーナリストの小澤治美(Harumi Ozawa)だ。2011年当時、小澤はペン記者だった。この4人が、震災当時の取材と、10年後に東北を再訪した際の体験を振り返った。

■「まるで線が引かれて」

岩手県陸前高田市(2011年3月17日撮影)。(c)AFP / Kazuhiro Nogi

 午後2時46分、マグニチュード(M)9.0の地震発生。その時、野木カメラマンは東京都内で電車に乗っていた。「今まで感じたことのない激しい揺れ」だったと言う。

「電車から降りて逃げたが、地震が強過ぎてまっすぐ歩けなかった」。外に出ると、揺れが続く中、高層ビルが一斉にゆらゆら揺れているのが見えた。野木は取材チームに加わり、被災地に直行した。福島県南相馬市に到着したのは翌日だった。

「辺り一面が海水に沈んで、荒涼とした風景だった」と野木は思い起こす。一緒に行動していた檜山記者は、ピンストライプのスーツに革靴といういでたち。出発する時、着替える暇がなかったのだ。

福島県南相馬市で祈りをささげる人(2011年5月2日撮影)。(c) AFP / Yoshikazu Tsuno

 取材チームが南相馬の市役所に着いた時、大きな被害はなさそうに見えた。しかしその先、海岸に向けて車を走らせると、「町が突然途切れた」と檜山は語る。「まるで線が引かれて、そこから東はすべて水で破壊し尽くされていた」

「線」が示すのは、山のような津波が到達した地点で、東北で取材していた他の人々も圧倒されていた。そこを境に、普段の生活から別世界へ入り込むような感覚を伊藤記者は覚えている。「すべて泥で覆われていた。道路は水没し、橋は倒れ、防波堤も崩れ落ち。海からの強い風がほこりを舞い上げて……地域の姿は、もはや地図と一致しなかった」

「あの『線』が、天国と地獄の境目だと思った」

 小澤記者は、東日本大震災の1年前にも東北を訪れている。2010年2月、チリ地震による津波が太平洋を渡って日本沿岸に迫っていた。

 宮城県南三陸町。避難所となっていた志津川中学校(Shizugawa Junior High School)の体育館で、小澤は1人の高齢の女性と出会った。女性は50年前、同じくチリ沖で起きた地震による津波で、幼い息子を亡くしていた。「背中にしっかりくくり付けたはずなのに、赤ちゃんは母親の着物からずり落ちたのだろう。やっと水のない場所にたどり着いた時には背中には何もおぶっていなかったと話してくれた」と小澤は語った。

宮城県南三陸町の駐車場で、配られた熱いシチューとご飯を食べる8歳と9歳(いずれも当時)の兄弟(2011年4月12日撮影)。(c) AFP / Yasuyoshi Chiba

 2011年の震災後、再び南三陸を訪れると、町は津波に襲われていた。その時、1年前に出会った女性のことが頭に浮かんだ。「学校があった丘のてっぺんまで水が押し寄せたと聞いた。体育館は辛うじて助かったけれど」

■放射能の恐怖

(c)AFP / Handout

 3月12日、道路脇にいた檜山記者と野木カメラマンのところに消防団員が駆け寄って来た。「原発が……」とだけ告げ、手のしぐさで爆発を表現した。2人は車に飛び乗り、福島第1原子力発電所から約20キロ離れた道の駅のような場所に向かった。そこに置かれていたテレビが伝えていたのは、未曽有の危機だった。

「南相馬でテレビを見ていると、東京にいるキャスターが原発事故について伝えていた。そのキャスターによると、私たちは原発事故の真っただ中にいるらしかった。その状況をすぐに理解することはできなかった」と檜山は言う。「何度も地図をチェックして、自分が(原発から)半径20キロの避難地域の外にいることを確かめた。妊娠中の妻と、2歳になる息子のことを思い浮かべた」

 伊藤記者が、放射能災害の重大性をようやく理解し始めたのは、立ち入り禁止区域の農家を訪れてからだった。そこで目にしたのは、病気や飢えで死んでいく牛たちだ。「見えない恐怖を初めて感じた。見ることも、臭いを嗅ぐこともできないけれど、線量計のアラーム音だけが危険を知らせていた」

津波の被害を受けた福島第1原子力発電所をバスの窓越しに見つめる東京電力(TEPCO)の社員と報道関係者(2012年2月20日撮影)。(c)AFP / Issei Kato

■耐え難い喪失

 岩手県宮古市姉吉地区。小澤記者は2011年4月、大津波で陸に打ち上げられた岩に座り、ぼんやりと海を眺めている高齢の男性に出会った。近づいて声を掛けたが、「私の声が聞こえず、私の存在にも気付いていないようだった」と振り返る。親戚だと名乗る近くにいた女性が、この男性は息子の妻と3人の孫を津波で亡くしたばかりだと教えてくれた。

「話を聞きたいと思い、声を掛け続けたけれど、会話をすることもできなかった。今でも覚えているのは、その時に見た真っ青な空と海、そして心が震えてどうしようもないような自分の気持ち」と小澤は語る。大きなものを失った人々に接し、記者たちは葛藤や罪悪感を抱いていた。

 ある日、伊藤記者が見掛けた女性は、毛布に覆われた家族の遺体を前にしてひざまずき、泣き続けていた。「声を掛けるべきだったが、ずっと女性の脇で立ち尽くした。震える手でテープレコーダーを持ったまま」と伊藤は言った。「これが、この仕事の一番つらいところ」

■トラウマ

 東北での取材中、野木カメラマンは罪悪感と闘っていた。「結局のところ、自分は被災した人たちの写真を撮って稼いでいた」と話す。「でもそうしながら、他人への思いやりや客観性について学んだ。それに、自分の感情のスイッチをつけたり消したりする方法も。それらを、その後の自然災害で応用できたのは事実だ」

岩手県野田村で地震と津波で損壊した自宅の前に立つ74歳(当時)の女性(2011年3月27日撮影)。(c)AFP / Yasuyoshi Chiba

 野木は、ある病院従事者に強い印象を受けていた。津波の砂を肺に詰まらせた患者の治療の難しさを説明していたその男性は、自分自身の家族と連絡がまだ取れず、安否を確かめられずにいた。

「あの人は仕事を優先せざるを得なかった。心配や不安でいっぱいだったのに」と野木は言う。「自分ならどうするか考えた。家族を守ることを二の次にして、働けるだろうか」

岩手県大槌町(2011年4月16日撮影)。(c)AFP / Yasuyoshi Chiba

 伊藤記者は、陸地に流された船が建物の屋根に乗り上げるなどの現実とは思えない光景にはすぐに慣れたが、「人の死は別問題」と言う。「今でも忘れられないのは、あの臭いと、潮風になびく赤い旗。遺体が見つかった場所を示していた」

「ある晩、ホテルへ戻る車の中でみんなは黙っていた。一つの理由は疲れ切っていたこと。他には、トラウマ(心的外傷)を感じていたからだろう。少なくとも、自分がそうだった」と伊藤は続けた。「大声で叫びたい気持ちだった。夜、恐ろしい場面がフラッシュバックして、ホテルのベッドの上で汗びっしょりで目が覚めた」

■共有する悲しみ

学校に避難して津波を生き延びた雁部那由多さん。宮城県東松島市で太平洋を見つめる(2021年2月8日撮影)。(c)AFP / Behrouz Mehri

 AFPの取材者は震災以降、定期的に東北地方を訪れている。しかし大震災から10年の節目を迎えた今年、福島を訪れた小澤記者は「自分の仕事で初めて、涙をこらえることができなかった」と明かした。福島県浪江町で地区の理事長だという男性にインタビューをしていた時だ。

 83歳のその男性は、10年前の津波の際に「どんなにきつく腕の中で抱き締めても、奥さんの体はすり抜けて、激しい波の中で離れ離れになってしまった」。

 妻の遺体が橋の下のがれきに埋まっていることは分かっていた。しかし、放射線量が高く、立ち入りが禁じられているため、男性は妻の体が腐敗していくのをただ見ていることしかできなかった。2か月後、ついに遺体が収容され、警察官が遺体の写真を男性に届けてくれたが、写っているものに妻の面影はどこにもなかった。衝撃を受けた男性はその場で写真を焼き捨てるよう懇願し、警察官はそれに応じた。

2011年3月14日の岩手県大船渡市(上)と2021年3月4日の同市。(c)AFP / Toshifumi Kitamura

「これまでもたくさんの悲しい話を聞いてきたけれど、冷静であるべき取材者として今までは涙をこらえることができていた」と小澤は打ち明ける。「でも今回はだめだった。小さな救いは、涙がすべてマスクの内側に流れ落ちたこと」

 今年再訪した檜山記者は、東北の物理的な復興と、人々の「心の復興」の進み方に違いを感じた。

「日々の生活は続いていく。地域によっては、いまだに巨大な建設現場の中で生活をしているような雰囲気だ」と檜山は言う。「新しい建造物が造られていく。しかし、そこは2万に近い人たちが命を落としたり行方不明になったりしている土地だ。きれいに造成されていく新しい東北の下に、地元の住民の皆さんが共有する悲しみや苦しみが深く隠されていくように感じた」

■喜びの土地

 AFPは、これからも東北からの報道を続けていく。なかでも伊藤記者が目指しているのが、福島県に住む佐藤彰(Akira Sato)牧師の今後を伝えることだ。佐藤牧師が原発事故の影響を受けた地域にある教会からの避難を余儀なくされて以来、伊藤は何年もかけてインタビューを行ってきた。避難中、同牧師は新たに教会を建てようと考え、完成した教会は、同じく避難してきた多くの教会員たちの礼拝の場になっている。

 佐藤牧師は今、避難命令が解除されたら、以前いた教会に戻りたいと考えている。場合によっては来年だ。

福島県富岡町にある福島第一聖書バプテスト教会の中で、防護服を着て立つ佐藤彰牧師(2021年2月27日撮影)。(c)Philip FONG / AFP
福島県いわき市泉町にできた福島第一聖書バプテスト教会の前に立つ佐藤彰牧師(2021年2月26日撮影)。(c)Philip FONG / AFP

「福島からは悲しい話が多いが、佐藤牧師の話は心の励みになる」と伊藤記者は言う。「佐藤牧師の人生の新しい一章を見てみたい」。一方、檜山記者は、東北を語るなら2011年の大災害からだけではなく、美しい自然や名産物を忘れてはならないと言う。

「この地方の海岸線には、圧倒的な美しさを誇る場所がある」

「この地方は、人間に回復力があることの証しでもある。東北の記憶は悲しみだけではない。ここは、心が弾む喜びの土地でもある」

このコラムはAFP東京支局のサラ・フセイン(Sara Hussein)記者が執筆したものを、仏パリのミカエラ・キャンセラ・キーファー(Michaela Cancela-Kieffer)が編集し、2021年3月13日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。