【3月9日 AFP】鉄筋コンクリートの壁は崩れるままに、冷たい潮風にさらされていた。変わり果てた母校の姿を、永沼悠斗(Yuto Naganuma)さん(26)は無言で眺めていた。この場所で、10年前に8歳だった弟が命を落とした。東日本大震災の津波が襲った、宮城県石巻市の大川小学校での犠牲者だ。

 2011年の巨大地震、大津波、原発事故から10年。震災とその爪痕が残るコミュニティーで、永沼さんのような若い世代は多感な時期を過ごした。

 津波で、家族や自宅、学校や地域社会を丸ごと失った子どもたち。しかし、その経験を人生の指針とし、防災に関する仕事や、地域の子どもを支援する活動に携わる大人になった人々がいる。

 10年たった今も、永沼さんの大きな傷は癒えない。

「自分の場合は、家も家族も地域もなくしたので。自分を作り上げてきた物、体の半分が津波で持っていかれたような、えぐり取られたような気持ちになりました。そこからまたつくり直すというのは、すごく大変で」

 約1万8500人の死者・行方不明者を出した東日本大震災。大川小学校では高台への避難が間に合わず、津波に押し流された児童74人と教職員10人が犠牲となった。

 当時16歳だった永沼さんは、自分を責めた。

 マグニチュード(M)9.0の巨大地震が発生する2日前。永沼さんは地元の海岸でM7.3の大きな揺れを感じた。あの後に、津波や災害について家族で話し合いをしていれば、その後の被害は少なくできたのかもしれない。そして自分はその警告を見逃したのだ、と。

「それを3月9日にしていれば、弟も亡くならずに済んだのかなと思いますし。地域の方々に伝えていれば、亡くならなかったと思う」

 弟のスクールバスを待っていたはずの祖母と曽祖母も、津波で亡くなった。「後悔。本当に。その日を漠然と迎えたのが、一番腹立たしい」