【1月22日 Xinhua News】中国河南省(Henan)洛陽市(Luoyang)にある隋唐洛陽城遺跡の発掘調査でこのほど、玄武門の遺構が初めて全貌を現した。同遺構の発見は、唐~宋代の宮城構造や配置を知る上で重要な意義を持ち、中国古代の都城の形状変化や沿革の研究にも役立つという。

 中国社会科学院考古研究所・洛陽唐城作業チームのリーダーを務める石自社(Shi Zishe)氏によると、玄武門遺構は隋唐洛陽城遺跡の重要部分であり、これまでの調査で遺構の形状や正確な位置、沿革が分かったという。応天門や玄武門など宮殿建築群の位置関係がはっきりしたほか、隋唐から北宋にかけての宮城の形状変化の特徴や遺構の移動方向も明らかになった。

 これまでの発掘で、唐代の門道や墩台(とんだい、基台)、馬道(傾斜道)、城壁の遺構が確認された。玄武門が一つの門道からなり、門道の天井を木の柱と梁(はり)で支える「単門道過梁式」構造だったことも分かった。門道の幅は6メートルで、墩台は東西の幅13・9メートル、奥行き16・5メートル。墩台の両端は城壁と接続しており、城壁の南側(内側)には、墩台に登るための馬道が設けられていた。馬道の長さは東側が約40メートル、西側が約50・5メートルだった。

 玄武門は隋の大業元(605)年に造営された隋唐時期の洛陽城宮城の北門で、南門の応天門と相対している。705年には、唐王朝を廃し武周王朝を建てた女帝・武則天(則天武后)に対して宰相らが退位を迫った「神竜政変」の舞台の一つとなり、武則天が歴史の舞台から去る契機になった。その後、唐の中宗が「神武門」と改名したが、北宋時代に破棄された。

 玄武門の位置については、考古学者が1980年代に文献記載と試掘結果を結び付け、洛陽市老城区唐宮路の北、玄武門大街の南、定鼎(ていてい)北路の東に位置すると特定していた。正式な発掘調査は昨年2月に始まり、現在も発掘と整理作業が続いている。(c)Xinhua News/AFPBB News