■親戚からの冷遇

 夫婦は、避難の過程で感じた恐怖と消耗を決して忘れない。失敗に終わりイラクに戻らなければならないことを、常に恐れていた。

 持ち出した9000ユーロ(約110万円)のほとんどは、わずか一週間でなくなった。大半は地中海やセルビア・ハンガリー国境、オーストリアの国境を越える際、密航業者へ支払った。

 最も恐ろしかったのはEU圏内に入るときだった。その秋、ハンガリーはセルビア国境に鉄条網を建て、移民の流入を食い止めようとした。

 満月の光の下で、クルド系イラク人の密航業者が警察の目をかいくぐって、夫婦らを野原に誘導した。静かに後に続いたとき、一行の真ん中にいた女性と子どもらが、潜んでいた何者かに襲われそうになった。同行していたAFP記者は、警官の制服のような格好をした複数の男らを見た。何人かの移民が木の枝を振り回すと、強盗未遂の男たちは暗闇の中へと戻っていった。

 ブダペストでは売春宿にさえ部屋の提供を断られ、幼い息子と共に路地で夜を過ごしたこともあった。

 オランダに到着してからも、一家の安堵(あんど)は長くは続かなかった。

 そこからの4年間は非情で複雑な行政手続きに振り回され、移民シェルターを転々とした。かつて女性用刑務所だった施設に収容されていたこともあった。

 オランダにいた親戚からは、期待したような歓迎を受けなかった。運命に見捨てられたように感じた。

 庇護申請をしている間は、就労や家を借りることはおろか、将来の計画を立てることもできなかった。何よりもショックだったのは、申請が2回却下されたことだった。

 アフマドさんは2012年にシリアからイラクに戻っていたため、故郷は安全ではないという彼の主張と明らかに矛盾していると判断された。そこでシリアもイラクも安全ではないと主張し、異議申し立てを行ったが駄目だった。

 約1年間、一家は滞在許可書を持たない移民として、知人のアパートを転々として暮らした。アフマドさんは「身分証の提示が求められることは何もできませんでした」と振り返る。「銀行に行けず、アリアが病気になったときに病院に連れて行くこともできませんでした。あらゆる知り合いが私のことを、まるで彼らより価値が低いかのように見下していました」

 日々の苦しみはアリアさんに特に重くのしかかり、ストレスによる脱毛も起きた。アリアさんは「プレッシャーに押しつぶされそうになったときがありました」と語った。

 オランダ入国管理局(IND)によると、2015年の庇護申請は5万8880件。その半数近くをシリア人が占めていた。

「庇護を得るまで長く待たされましたが、私はこの国に何の悪感情も抱いていません」とアフマドさん。「ここは、私たちが故郷に選んだ国です」