【12月2日 Xinhua News】中国陝西省(Shaanxi)の考古学者が前漢時代初期の大型墓地で発見した陶罐(とうかん、みずがめ)が、文献のみに記載されていた都市の改名の歴史を証明する物的証拠となった。

 陶罐は同省西咸新区秦漢新城高荘鎮大堡子村の西にある大堡子墓地で見つかった。陝西省考古研究院は今年5月以降、同墓地で墓103基と墓を囲む溝の跡10カ所余りを発掘。墓の多くは盗掘されていたが、土器や陶器、銅器、玉器、鉄器など300点(組)近くが出土した。

 今回注目された陶罐は、M51と名付けられた墓から出土。容器の肩の部分に「新亭」の2文字が刻まれていた。同研究院大堡子墓地プロジェクトの朱瑛培(Zhu Yingpei)執行チームリーダーによると、「新」の地の「亭市(町の市場)」を意味するという。同墓地周辺には、秦漢時代に咸陽(かんよう)、渭城(いじょう)、涇陽(けいよう)などの県が置かれていたことも文献と考古資料から分かっている。また「漢書・地理志」にある「渭城、故咸陽、高帝元年に名を新亭に更む。七年罷められ、長安に属す」の記載、「漢書・蕭何曹参伝」にある「(曹参は)東に咸陽を取り、名を更め新城と曰う」の記載は、咸陽城が漢初に短期間「新城」と改名されたことを示している。陶罐の発見は、文献の記載のみの歴史に新たな物証を添えたことになる。 

 朱氏は、同墓地で出土した陶器と副葬品の銅銭などから大堡子墓地と漢代の新城県の内在的関係が証明できるとし、「新亭」は漢初に設置された新城県の亭市を指すはずだと指摘する。考古学資料に基づけば、前漢の陶文から「新亭」の文字が見つかったのは今回が初めてであり、漢初に新城県が設置されていたことを実証している。陶罐の発見は、大堡子墓地が秦王朝の都、咸陽の中心エリアから北東約8キロという特殊な地理的位置にあることから、秦漢の政権移行期における咸陽の位置づけの変化と都市変遷の重要な流れを埋める資料にもなるという。(c)Xinhua News/AFPBB News