【11月19日 AFP】灼熱(しゃくねつ)の太陽で乾ききったスーダン東部の辺境の地。隣国エチオピア北部ティグレ(Tigray)州での激しい戦闘を逃れた2万5000人のために、難民キャンプの再建が進んでいる。

 エチオピアのアビー・アハメド(Abiy Ahmed)首相は今月初旬、ティグレ州の与党「ティグレ人民解放戦線(TPLF)」が連邦政府軍の基地を攻撃したとして、軍に反撃を命じた。

 以降、エチオピア北部の同州一帯は、地上戦や空爆、ロケット弾攻撃、集中砲撃に見舞われ、紛争地と化している。疲労困憊(こんぱい)し、恐怖におののきながらも脱出した人々は、焼け付くような暑さや飢えと闘っている。

 エチオピア難民の大量流入に直面した最貧国の一つ、スーダンは、国境から80キロに位置するウム・ラクバ(Um Raquba)難民キャンプを再開した。このキャンプは1983~85年に100万人以上が犠牲となったエチオピア大飢饉(ききん)の際、多くの難民を受け入れた。

 だが、数年前に閉鎖されたキャンプに現在も残っている建物は、屋根がなくなった古い校舎と荒れ果てた元診療所の二つだけだ。必死でたどり着いたエチオピア難民らは簡易テントを張ったり、援助機関から支給されたシートの上に横たわったりしている。

 最寄りの村まで約10キロ。荒野の真ん中で孤立したキャンプで受けられる緊急援助は今のところ最小限で、スーダン難民委員会による支援の下、国連児童基金(ユニセフ、UNICEF)が飲料水を、世界食糧計画(WFP)が糖みつとレンズ豆を配給し、赤新月社(Red Crescent)が野外診療所を運営している。

■今後も増える難民

 難民キャンプ所長のアブデル・バセット・アブデル・ガニ(Abdel Basset Abdel Ghani)氏は今、最も緊急に必要としているのは仮設の住まいだとAFPに語った。「計画では3区画を建設し、各8000人を収容する。昔のキャンプの土地を使い、できれば隣接する土地にまで拡張する」

 ガニ氏は「自分がこのキャンプの設営に関わるのは2度目だ。1985年に初めてスーダン難民委員会に関わり、今また責任者として関わっている」「当時はエチオピアの飢餓難民を受け入れた。今は紛争から逃れてきた人々を受け入れている」と語った。

 1980年代初め、極度の干ばつに襲われたエチオピアは、メンギスツ・ハイレ・マリアム(Mengistu Haile Mariam)大統領が率いた強硬なマルクス主義政権と、メレス・ゼナウィ(Meles Zenawi)氏が率いたティグレ人反政府組織による戦闘の中、飢饉に陥った。1991年にメレス氏はメンギスツ政権を打倒。2012年に死去するまで、ティグレ人による政治的支配の上に基盤の狭い不安定な政権を率いた。

 今回の連邦政府軍とティグレ州政府との戦闘によって、現時点でエチオピア難民2000人以上がスーダンのキャンプに収容されているが、スーダン政府と国連の難民機関は今後もその数が増えると予測している。

 国連は戦争犯罪に相当する可能性や、「民族や宗教に基づく民間人を標的にした攻撃」が行われていると警告しており、そうした事態を目撃した多くの人々が精神的ショックを受けているという。(c)AFP/Abdelmoneim Abu Idris Ali