■「自由」をくれた陸上

 その後1998年にフランスへ渡り、今の家族に引き取られたアレーズは、ドローム(Drome)の陸上クラブに入った。そして人工装具を着けて走った晩、襲撃後初めて悪夢にうなされずに済んだ。

 現在、米フロリダ州のマイアミに住むアレーズは、「初めてトラックに足を踏み入れた瞬間から、できるだけ長く走らないといけない、捕まっちゃいけないという感覚があった」と話す。

「練習初日の夜のことは今でもきのうのように覚えている。驚いたよ。頭がすっきりして、自由だった。体内のエネルギーや憎しみが、全てトラックに向かっていた」

「それで、スポーツが自分にとっての治療になり得るということを悟った」

 乗馬にも挑戦し、楽しみながら7段階中の6段階まで腕前を上げたが、結局やめた。本人は笑いながら「憂さを晴らすのは馬であって、僕じゃなかったからね」と話す。精神分析も徒労に終わり、「医者は僕に丸や四角を書かせた。2、3回通ってみて、別の方法にしたいと言った」そうだ。

 しかし、アレーズは理解者となる体育教師と出会う。4×100メートルリレーのアンカーとして、チームを劇的な「逆転」勝利へ導いたことで、陸上を本格的に始めるよう勧められた。仲間たちは、チームのアンカーが義足だとは知らなかった。アレーズはからかわれたり、人種差別が激しくなったりするのが嫌で、足がないことを隠していた。

「僕は『バンブーラ』と呼ばれていた。汚い黒人とか、サルとかいう意味だ。つらかったよ」

 それでも、ブルンジのブジュンブラ(Bujumbura)で父親に見捨てられ、児童養護施設で5年を過ごした少年にとって、アレーズ一家に養子として迎え入れられ、ジャン・バティストという名前と、ずっとなかった家が手に入ったのは幸いだった。

「ここへ着いたときは、これは現実なのかと思った。その方面、つまり愛されることに慣れていなかった。僕にとっては、どうして人種差別が起こるのかいまだに理解ができない。僕の両親は白人で、僕は黒人の子どもだったが、両親は実の子どものように愛してくれた」