【9月27日 東方新報】1894~95年の中日甲午戦争(日清戦争)で沈没した中国の巨大軍艦「定遠(Dingyuan)」の装甲鉄板が今月、山東省(Shandong)威海市(Weihai)近海で引き揚げられた。「定遠」は昨年夏に沈没位置が確認されていた。中国人にとって125年前の日清戦争は「屈辱の歴史」なのだが、調査が進むたびに注目が集まっている。

 中国国家文化財局水中文化遺産保護センターは今月19日、威海市の劉公島(Liugongdao)近海で重さ約18トンの「定遠」の装甲鉄板を引き揚げることに成功したと発表。鉄板を覆っていた海底の泥をしゅんせつし、ワイヤで釣り上げた。全体で10時間以上かけた作業だった。保護センターは「鉄板は船体構造を分析する重要な鍵となり、中国海軍や甲午戦争の歴史研究に大いに役立つ」と意義を強調する。

「定遠」はドイツ・シュテッティンの造船所で建造された7000トン級装甲艦で、「東洋一の堅艦」と呼ばれた。1885(明治18)年に清朝の北洋艦隊に配備され、その旗艦となる。翌1886年には「定遠」率いる北洋艦隊が長崎に来航した際、水兵が暴動を起こす「長崎事件」が発生した。日本国内では当時、「富士のお山に腰をかけ 鎮遠、定遠げたに履き」という戯(ざ)れ歌がはやった。大男を歌った歌詞で、定遠と同型艦の「鎮遠(Zhenyuan)」の2隻が非常に大きいたとえとして登場しており、日本で非常な脅威ととらえられていたことが分かる。

 そして日清戦争が始まった直後の1894年9月17日の黄海海戦で、北洋艦隊と日本の連合艦隊が戦闘。「定遠」「鎮遠」を擁する北洋艦隊に対し、速力に勝る連合艦隊が勝利した。その中で「定遠」は艦全体に大量の砲撃を受けながら航行能力を維持し、「不沈艦」とも言われた。最後は1895年2月、威海衛防衛戦で日本軍の魚雷艇攻撃で損傷し、日本軍に奪われるのを避けるために自爆、自沈した。

 日清戦争後、福岡県の太宰府天満宮(Dazaifu Tenmangu)の神職は私財を投じて引き揚げた定遠の部材を使い、天満宮の境内に記念館「定遠館」を設立。和歌山県有田市の須佐神社にも「定遠」の砲弾が奉納され、大国・清に勝利した象徴とされた。

 それから120年余の時を経て、中国では水中文化遺産保護センターが中心となり、水中調査が本格化する。2018年夏には黄海海戦で撃沈された装甲巡洋艦「経遠(Jingyuan)」を発見し、艦名を記したプレートや砲弾、銃弾を引き揚げた。そして日清戦争開戦から125年となる2019年9月、「定遠」の沈没位置を確認。今月の装甲鉄板引き揚げに至る。

 中国において日清戦争は、その敗戦後に日本や欧米列強から本格的に侵食されるため「屈辱の始まり」と理解されている。北洋艦隊では乗組員の士気が低くアヘンの吸引が横行し、それが海戦に敗れた大きな要因とも言われ、当時の中国の停滞・腐敗ぶりを示す象徴にもなっている。

 だが、2018年に「経遠」船隊を水中考古学の特別チームが船体を調査したところ、水タバコの葉っぱ約100袋や水タバコの吸引具は見つかったが、アヘンの葉っぱや吸引具は全く見つからなかったという。「経遠」の乗組員は日本軍の攻撃を受けても退避せず、ほとんどが戦死しており、「およそ125年ぶりに『冤罪(えんざい)』が晴れた。彼らは愛国者だった」と話題になった。

 中国は近年、高い経済成長を続け、国内総生産(GDP)は日本を抜いて世界第2位となった。屈辱の歴史を思い起こすことで、「昇り龍」のように飛躍する現代中国の発展をあらためて感じ、愛国心をくすぐる効果もあるようだ。(c)東方新報/AFPBB News