【8月12日 AFP】今年5月に起きた黒人男性ジョージ・フロイド(George Floyd)さんの死は、米国に文化的・社会的激震とその余波を引き起こした。市民らは体系化された人種差別の撤廃を要求し、AFPTVでは10を超える都市の抗議デモを取材した。AFPTV報道班がどう動き、その報道がAFPのジャーナリストらにどう影響を与え、ニュースルームに倫理的議論を巻き起こしたかをここに書き記す。執筆はAFP北米支局のジハン・アマル(Jihan Ammar)ビデオ編集長と、サリマ・ベルハジ(Salima Belhadj)、ジル・クラレンヌ(Gilles Clarenne)、ジャンリゴ・マーレッタ(Gianrigo Marletta)各記者が手掛けた。[記:ジハン・アマル]

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 米国で2020年最大のニュースになるはずだったのは、大統領選だ。支局では2016年からその準備にかかっていた。トランプ氏の選挙戦に関するニュースは雪崩のような関心を巻き起こそうとしており、われわれは米国でのビデオ報道活動全体を大々的に見直すことになった。そしてスタッフを7人から20人以上に増員し、取材陣を全土に広げ、ライブ映像に特化した「主調整室」を設置し、全米各地のフリーランスとの関係を強化した。

 2020年大統領選まで1年以上を残して、2019年秋には取材プランは整っていた。選挙の年を前に全員が胸踊らせていた。だが、2020年がプラン通りにいかないことを予見させる最初の兆候として、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が出現した。即座に在宅勤務体制が敷かれ、われわれの全米ネットワークは強固に維持された。そして、ジョージ・フロイドさんの死が起きた。すぐにベテランのビデオジャーナリストをミネアポリス(Minneapolis)行きの飛行機に乗せた。1日目の激しい暴動の夜が明け、さらにもう1人を派遣した。その後、抗議デモは全土に広がった。

 ミネアポリス、ニューヨーク、カリフォルニア、マイアミ、ヒューストン(Houston)、アトランタ(Atlanta)、デトロイト(Detroit)、シアトル(Seattle)、クリーブランド(Cleveland)、シカゴ、ラスベガス(Las Vegas)、フィラデルフィア(Philadelphia)、首都ワシントン──自社のビデオジャーナリストと14の都市にいる定期寄稿者によって早急に取材を行った。

 散発的なデモや略奪が発生した場所では、フリーランスのビデオジャーナリストの広範なネットワークが迫力ある画像で、自社スタッフの報道を支えた。フリーランススタッフには、ライブ映像を携帯電話で送るトレーニングを行った。こういった「没入型」のライブ撮影は、常に移動していくデモの取材には完璧で、ビデオジャーナリストらは軽量化した装備で長く過酷な日々を乗り切ることができた。またデモの最中に衝突が起きた場合もより安全だった。

 最初に現地入りしたビデオジャーナリストの一人は、ジル・クラレンヌだ。彼は「外出禁止令下のワシントンから、ミネアポリスの数百人の抗議デモの中に飛び込んだ」と回想する。「3日間にわたって、昼間の平和的デモが夜間には略奪と建物への放火と化した」

 私と同僚のフォトグラファー、ケレム・ユセル(Kerem Yucel)がある場所に駆けつけると、抗議デモの参加者らが前夜に焼き払った店舗からまだ煙が上がっていた。すぐに大声で「息ができない」と叫ぶ人々の声が聞こえた。ジョージ・フロイドさんを膝で押さえつけた警官が勤務していた警察署の前に集まった人々だった。

 その夜、デモ隊はミネアポリス警察署に火を放った。

 われわれの映像は世界中の多くのテレビネットワークで生放送された。

 ジルは私にこうも語った。「ライブ撮影時にはたいてい、ヘルメットと催涙ガス用の防護マスクを着用していた。デモ隊の一人で、本名を明かさず『シカゴ』と名乗った参加者が警官隊と対峙(たいじ)し、白人に特権的地位があると思っているのかと問い詰めていた。私は自分自身もそうであること、ベルギーから米国に移って来た白人記者であることに気付いた」

 マイアミ在住のジャンリゴ・マーレッタは、フロイドさんの死から3日ほどして、ミネアポリスへの派遣取材に志願してきたビデオジャーナリストの一人だった。

 彼はAFPフォトグラファーのチャンダン・カンナ(Chandan Khanna)とチームを組み、ミネアポリス空港でレンタカーに飛び乗り、真っすぐ抗議デモに向かった。「(デモを)見つけるのは難しくなかった。ミネアポリスのミッドタウンから、空に向かって噴き出している黒煙の後を追っていけばよかった」

「太陽がゆっくりと沈んでいくところだった」。彼はこの記者コラムのためにその日のことを振り返った。「ジル・クラレンヌの送信機のバッテリーが切れかけていた。デモ行進の中で落ち合って私が引き継ぎ、AFPのライブ報道を続行した。動きながらの報道だ。三脚もない。生中継用の送信機をバックパックに入れて背負い、カメラを持って歩いた。飛んでくる物を避けながら、激怒している背後のデモ隊と前方の機動隊に注意して、燃えている車に気をつけながら、そしてもちろん、できるだけスムーズにすべてを撮影するのだ」

「私の派遣は1週間だったが、1か月のように感じられた。取材活動のほとんどはアドレナリン放出系だったが、私は静かに深く考える機会を持つようにした。7日間、毎日、ジョージ・フロイドさんが死んだ現場に立ったんだ。あらゆる皮膚の色、あらゆる年齢、あらゆる性的指向の人々が大勢集まって泣き、祈り、怒り、互いに話し合った。私がインタビューした人々の言葉が、広く世界中で、そして今だけではなく、これからもずっと聞いてもらえることを願っている」とジャンリゴ・マーレッタは記している。

 支局に戻ったわれわれ全員、感情が高ぶっていた。私もそうだった。

米テキサス州ヒューストンのファウンテン・オブ・プレイズ教会で執り行われた黒人男性ジョージ・フロイドさんの葬儀で、ひつぎを担ぎ出す人々(2020年6月9日撮影)。(c) AFP / Godofredo A. Vasquez

「追伸:あなたは黒人ですか、それとも白人ですか?」 。これは私の妹が小学校のとき、授業中にこっそり渡されたラブレターの最後に書かれていた質問だ。移民だった私の家族にとって、1980年代の米国南部に暮らすということの現実を気付かせる言葉だった。そのときから、米国ではすべてが人種で決まるのだと私たちは理解した。皮膚の色によって、自分はどちらの味方なのか、昼休みに誰とランチを食べるのか、そして、誰を愛するのかが決まったのだ。

 私たちは、1921年にオクラホマ州タルサ(Tulsa)で起きた人種暴動や、奴隷制廃止を祝う記念日「ジューンティーンス(Juneteenth)」について、学校で教わらなかった。ニューヨーク州北部で過ごした大学時代に初めて、アフリカ系米国人の教授から人種差別は権力問題だと説明された。それから私たちはトニ・モリスン(Toni Morrison)やアリス・ウォーカー(Alice Walker)といったアフリカ系作家の作品を読み、スパイク・リー(Spike Lee)が手掛けた映画はすべて見た。黒人カルチャーが流行になった。だが、それが現状を変えることはなかった。

白人警官に首を膝で押さえつけられ死亡した黒人男性ジョージ・フロイドさんの追悼デモで、こぶしを突き上げて抗議する人々。米ミネソタ州ミネアポリスで(2020年6月4日撮影)。(c)AFP / Chandan Khanna

 新型コロナウイルス流行によるロックダウン(都市封鎖)下、記録的な失業率にあるこの国で、8分46秒間にわたって窒息状態にされたジョージ・フロイドさんのビデオを見て、人々の導火線に火が付いたのだ。

 抗議デモの参加者らに、失うものは何もなかった。爆発的な怒りは、新型ウイルス流行下の行動基準をすべて投げ捨てさせた。他に例を見ない1年の中で、この抗議行動が重大な分岐点となることがわれわれには見えていた。

 同時に、米国滞在が長くはない外国人の同僚らには、この国の人種差別をめぐる姿勢と言葉に関する学習曲線があった。

 ニューオーリンズ(New Orleans)のあるフリーランスのビデオジャーナリストからは、倫理的問題を理由にこの仕事を断られた。彼女は白人であり、この事件はアフリカ系米国人社会に属するものだと考えていた。それはわれわれの間に議論を引き起こした。「白人記者はこの事件についてきちんと書けるのだろうか」とある同僚が質問した。「わがニュースルームはどれだけ多様性があるのか」、われわれは自問した。

 そのニューオーリンズのジャーナリストが代わりに「有色人種の」ジャーナリストを推薦できると言うと、フランス人の同僚が、奴隷制度を思い起こさせる言葉だとして不快感を表した。いや、米国では差別的な言葉ではないのだと、私は説明した。分かりにくいが、これは米国特有なのだ。

 われわれは白人よりも黒人のデモの参加者のインタビューを多くするようにし、メディアに取り上げられることが痛ましいほど少ないコミュニティーに発言の機会を与えようとした。ミネアポリスの抗議デモでは初め、白人の参加者らはあえて取材を拒み、黒人の参加者らの方に記者を振り向けていた。この国で起きていることの分析と称して白人の専門家にインタビューすることは、非常に間違ったことに思えた。これは単なる世論ではなく、誰の声を増幅しているかという問題なのだ。ジャーナリズムの基本的使命は、目撃者に発言の機会を与えることだ。

 われわれ編集スタッフの一部にとっては、これは個人的な話でもあった。北米支局ビデオ副編集長のサリマ・ベルハジは2019年に着任したが、到着と同時にある意味発見だったのは、自分が「黒人男性」と結婚した「白人女性」であることだったという。

白人警官に首を膝で押さえつけられ死亡した黒人男性ジョージ・フロイドさんの追悼デモで、こぶしを突き上げて抗議する人々。米ミネソタ州ミネアポリスで(2020年6月4日撮影)。(c)AFP / Chandan Khanna

米ミネソタ州ミネアポリスのスーパーマーケット「カップ・フーズ」の前で、ジョージ・フロイドさんの死に対する裁きを求める抗議デモの横で、外出禁止令が明けるのを待つソマリア系米国人カップル(2020年6月1日撮影)。(c)AFP / Kerem Yucel

 以下は、この記者コラムのために彼女が書いた原稿だ。

「これまで自分の家族は混血家族だとか、自分が『白人』だと表明することなど考えたこともなかったが、米国に移ってきて以来、ほとんどすべてのことが自分たちの人種に結び付けられている。書類への記入では、自分の人種を申告する欄にチェックマークを入れるよう求められる。マークを入れることに抵抗はない。だが、唯一問題なのは『アフリカ系』や『アラブ系』という欄がないために、どの欄にも自分が当てはまらないことだ」

「確かに、私はフランス人だが、『白人』だという意識はないし、どこにもチェックマークを入れない。だが私の夫の場合は全く別の話だ。彼はどの欄にマークを入れるべきか厳密に分かっている。そして米国ではそのことによって、彼の死を望む人がいるかもしれないということも分かっている」

「私たち2人は、ジョージ・フロイドさんの死のビデオを最後まで見ることができなかった。だが彼が地面に押さえつけられる様子と警官の冷たいまなざしを見て、夫は『安全』と感じることができないと言った。そして、黒人であることが、この国(米国)では大問題だと言った。私は今回だけは、自分をこんなに直撃した事件の現場にいなかったことに安堵(あんど)した」

米連邦議事堂で黒人男性ジョージ・フロイドさんの死や、その他の警察の暴力による犠牲者の死を悼み、膝をついて黙とうする民主党議員ら(2020年6月8日撮影)。(c)Brendan Smialowski / AFP

「とりわけ私の心を揺さぶった瞬間がある。ミネアポリスで、警察署が放火された翌日に『シカゴ』と名乗る若い男性が、警官の隊列の前に立って怒りをあらわにしていたことだ」

「すぐに思い出したのは、マチュー・カソヴィッツ(Mathieu Kassovitz)監督のフランス映画『憎しみ(La Haine)』の冒頭の数分間だった。撮影は私の地元である、仏北部ルーアン(Rouen)市のレ・サパン(Les Sapins)で1994年、警察から逃げていた住民のイブラヒマ・シー(Ibrahima Sy)さんが死亡したことを受けて起きた暴動の最中に行われた。10年後、私はイブラヒマさんの父親にインタビューした。彼は息子の死の責任を警察に認めさせるための運動をしていた」

「私は同僚と一緒にシー氏のインタビューを始めたが、10分後には泣きながらスタジオを後にした。彼の悲しみが私の心の奥深くに触れた。私の父と同じように、彼も移民の家族の父親で、同じ地域の住民だった。この事件はあまりにも身近すぎて、私は距離を置くことができなかった」

フランス北西部ルーアンで、イブラヒマ・シーさんの死を受けて行われた抗議行動(1994年1月30日撮影)。(c)AFP / Mehdi Fedouach

フランス北西部ルーアンで、イブラヒマ・シーさんの死を受けて行われた抗議行動(1994年1月30日撮影)。(c)AFP / Mehdi Fedouach

「だからこそ、こうした事件を必ずしも、あるいはもっぱら有色人種のジャーナリストが取材することには賛成しない」と、サリマは言った。ジョージ・フロイドさんへの共感は普遍的なもので、皮膚の色に関係なくすべての人々が感じるものなのだと。

 サリマは原稿をこう締めくくっている。「最近では家族でワシントンを歩いていると、私を見て、夫を見て、そして混血の幼い娘2人に目を向ける『白人』の米国人たちに出会う。その人たちの探るような視線から、『あなたたちが愛おしい』という言葉が聞こえる」

このコラムは、AFP北米支局ビデオ編集長のジハン・アマルが、サリーマ・ベルハジ、 ジル・クラレンヌ、ジャンリゴ・マーレッタ各記者と共同で執筆、AFPパリ本社のミカエラ・キャンセラ・キーファー(Michaela Cancela-Kieffer)が編集し、2020年7月12日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。