フィアットのデザイナーとして現行型の500やティーポを手掛け、現在はFCAヘリテージ部門の責任者を務めるジョリートさんは、自ら担当したムルティプラでクルマの新しい価値を知ったという。


自分がデザインした自動車のなかで、大ヒットとなったモデルではない。社内の期待を背負ってペンをふるったニューカーでもなければ、デザイン界で絶賛されたものでもない。メディアは物議を醸し出した。世論に至っては……、このカタチに引いてしまった人も多かった。このクルマは、デザイン自由度が高くて、表現対象として思い切り腕を奮うことのできるコンセプト・カーとして企画されたものでもなかった。同時進行しなければならない多くのプロジェクトのひとつ、どちらかと言えば埋もれた存在。

にもかかわらず、このクルマを作ることで僕の人生は大きく変わった。もっとも心に残る1台。自動車デザイナーとしてばかりではない。エンスージアストとして、親として、考えることが好きで新しいことに興味津々の人間として、人生のページをめくるような体験となった。どんなスゴい自動車をデザインしたのか? と思われるだろう。スーパーカーを想像された方がいたら相当がっくりくるはずだ。僕が話すのはフィアット・ムルティプラである。

ジョリートさんは1989年にフィアット入社。2008年にイタリア・デザイン・イノベーション賞を受賞している。現職は2015年に着任した。

引き受け手がいない企画!?


プロジェクトのスタートは1994年。カテゴリーは「ミニバン」とされていたが、当時のフィアットでは「ピープル・ムーヴァー」という名前で呼ばれていた。なんとダイレクトな呼び方だと可笑しい。何枚かのスケッチを携えて同じくアイデアを提出した同僚と話し合いを進めた。

当時のフィアット・チェントロ・スティーレ(社内デザイン・センター)のボスはピーター・デーヴィス。パサディナのアートセンターを卒業したアメリカ人。スタッフはスペイン人、ドイツ人、日本人、韓国人、ギリシア人、アルメニア人、オーストリア人、フランス人と、イタリア人の影が薄くなるほど人種の坩堝だった。この多様性がよかったのだろう、議論は実にフランク、偏見もなければ格式にこだわることもなかった。それぞれが自分のものの見方をぶつけ合い、各々の情熱と自分の信じることを大切にした。

話し合いの段階では自分が担当するつもりはなかった。正直なところ想像だにしなかった。いつも通り、それぞれのスケッチをもとにディスカッションしたあとに同僚の誰かが受け持つのだろう、そのくらいの気持ちでいた。ピープル・ムーヴァーが僕の肩にのしかかって来たのは実に単純な理由、引き受け手がいなかったから。他に多くの重要なプロジェクトがあって、誰もがそちらをやりたがった。重要とは予算がふんだんに用意されたもの。ピープル・ムーヴァーはこの点でも貧しいプロジェクトだった。実現の可能性にも乏しい。フィアットは自社単独のミニバン製作に消極的で、ショー・カーとして発表することにすら躊躇いがあった。

当時は多くのメーカーがミニバン・プロジェクトを展開した。ポンティアック・トラン・スポーツ、日産プレーリー、ルノー・エスパスなどなど。フィアット・グループははでにプジョー/シトロエンとのコラボ、共通シャシーを使ってフィアット・ウリッセとランチア・ゼータを送り出していた。なぜに今更増やさねばならぬ。それでもトライすることになったのはこのカテゴリーのさらなる成長が期待されたからだろう。

現在、FCAヘリテージ部門を率いる僕は根っからのクラシック・カー好き。免許を取って以来、何台かのクラシック・カーを購入した。ポルシェ914/911、フィアット131アバルト、レンジ・ローバー、サーブ900ターボ、さらっと思い出せるのはこのくらい。その時々の財政状態に見合ったものであることと、生産から10年程度経っていることを基準に乗ってみたいものを選んだ。

前述の通り自分で運転するのは好きだが、一方で運転できなかった時代、つまり幼い頃はクルマに乗ることが苦痛だった。お父さんの運転するセダンに家族で乗って楽しそうに出かける自動車広告を見かけるたびに、懐疑的な気持ちになる。僕の場合、自分でステアリングを握った時間を至福の時とすれば、パッセンジャーシートで過ごした時間は正反対、悲惨なものだった。クルマ酔いに悩まされて苦痛を強いられた。あれは父の頻繁なブレーキングのせいばかりではなかろう。座る場所、シートの“格付け”、ポジションに致命的な欠陥があったのだと思う。

ムルティプラを担当することになった僕は、このクルマに自分の原体験を反面教師として投影させてみようと考えた。コンセプトは「自動車がもたらす人生の幸福なひととき」である。ピープル・ムーヴァーは自分から手を挙げたプロジェクトではなかったが、自動車をデザインする作業は手がける車種にメリハリがあった方が刺激的だ。この機会に僕は家族向けのミニバンの理想を追求してみようと考えたというわけだ。

アイデア・スケッチには、製造コストに配慮したフェンダー、車幅を抑える形状を取り入れたドア・ミラーなど、機能性に関するアイデアが多数書き込まれている。

クルマの新しい価値を知った

エクステリア・デザインに注目が集まってしまったが、誤解を恐れずに言えば、ムルティプラにデザインはないのだ。ボリュームがフォルムを作り上げている。パッケージングや技術上の優先課題や必要性が、あのフォルムを自然に生み出したと言える。デザイナーとしてもっとも力を入れたのはシート配列。2つのフロント・シートの間に“センター”を設けた。割り込んだ程度のものではない。この中央席こそ指揮官のイメージ。左右のそれと共通だ。リアも含めどの席も扱いを平等にすることが願いだった。こうしたことでルノー・エスパスやポンティアック・トラン・スポーツのスタイリングと決定的なパッケージング上の違いが生まれた。2台は2席3列。僕が望んだのは3席2列だ。細く長くから、広く短くした。パーキングもしやすいはず。全長はフィアット・プント並みである。

力をもっとも入れたというのが、6人を2列に座らせるシート配置。前列の中央は指揮官席をイメージしたという。

プロジェクトがスムーズに進んだのは自分でも驚きだった。時折「あのスタイリングがよく上層部に理解されましたね」と言われるが、実のところフィアット首脳陣はクルマの成り立ちを非常によく理解してくれた。当時の社長、カンタレッラはありがちなエクステリアにおさまりがちなミニバンではなく、デザイン上の差異化も大切にした。予定より2年早まり1996年のパリ・サロンに運ばれた。車名のムルティプラはフィアット元祖マルチバンの名前を継承した。

今ふり返ると、あれは自分に向いたプロジェクトだったと思う。ムルティプラが生産開始になった1998年に、初めての子供を授かった。家族がこういうクルマを必要とするステージに突入した時に自分が使いたいと思える自動車をデザインできたことは幸福だったと思う。僕の人生に強いインパクトをもたらしたのは、このタイミングが大きかったのかもしれない。告白すると僕はムルティプラを6台所有した。2000年に次男が生まれたこともあって私生活でフル活用したが、同時に仕事の足として同僚ともよく旅をした。趣味で弾くコントラバスを積んでセッションにも出かけた。それまで自動車では、歴史とかドライビングの楽しさとか、いわば孤の楽しみを味わってきたが、ムルティプラでは「車内に生まれる陽気さ」とか「他と過ごすよさ」を知った。

正直に言えばリ・スタイリングは好きになれない。僕の手からムルティプラが離れて行ったと感じている。平凡でつまらなくなったと言う人がいる一方で、普通化したことをポジティブに受け止める人がいることも承知している。

この“顔”のおかげで僕の世界は広がった。好奇心を掻き立てられた実に多くの人々との出会いがあって、それはニューヨークの近代美術館(MoMA)にまで広がった。販売台数でいえば、のちに手がけた現行“500”とは随分差があるのに、ムルティプラをきっかけに出会ったヒトの数は500とは比較にならないほど多い。この点でもムルティプラは僕の地平を開いた。

文=ロベルト・ジョリート 翻訳=松本 葉

(ENGINE2020年7・8月合併号)