終戦75年 「核廃絶」に向けた生存者の最後の願い
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■核兵器の禁止
田中さんは、被爆者の言葉がほんの一握りの人たちにしか興味を持たれない状況がしばしばあることを認める。そして、(人々の)関心が薄れてきているのではと不安になることもあると話す。
「それでもみんな、一生懸命やる」「そこに来てくれる人がいなきゃ、空振りになりますよね」と田中さんは話す。
濱住治郎(Jiro Hamasumi)さん(74)は、生存者の中では最も若い世代だ。広島に原爆が投下された時、母親は濱住さんを妊娠していた。
濱住さんの父親は即死だった。複数の親類も原爆の影響を受けて命を落とした。濱住さんは、父のことを考えない日はないとAFPに語った。
原爆に関する濱住さんの知識は、きょうだいから聞いたものだ。その内容は「リトルボーイ(Little Boy)」の名で知られる原爆とそれが爆発した瞬間の目がくらむような閃光(せんこう)と耳をつんざく爆音についての描写だった。
原爆が投下された時、濱住さんの父親は爆心地からほんの数百メートルの場所で仕事をしていた。濱住さんの母親ときょうだいはその翌日、父親の職場に向かおうとしたが、現場周辺の熱と肉の焼けるにおいのために途中で断念せざるを得なかったという。
その後、ようやく父親の職場にたどり着いた時、母親ときょうだいは父親の体に似た何かを見つけた。最終的に回収できたのは、ベルトの留め金や熱でぐにゃっと曲がった鍵、がま口財布の金具といった、燃えずに残ったわずかな金属片だけだった。
濱住さんは1946年2月に生まれた。当時、多くの子どもたちが経験したのと同じく濱住さんも母親のおなかのなかで被爆したが、それによる物理的な影響は免れた。
しかし、原爆の投下は濱住さんの人生を決定づけ、核兵器反対を訴える活動は数十年わたり続けられることとなった。
「抑止力ということで米国や同盟国に大きな利益をもたらしたと言われていますけれども、私(たち)にとっては、核兵器や核抑止は…先ほど見ていただいた、きのこ雲以外なにものでもありません」
「被爆者としては本当にアメリカに対して謝ってもらいたい…だけどその証しとして核兵器をなくすこと、報復ではないんだということなんです」