【7月22日 Xinhua News】中国新疆ウイグル自治区(Xinjiang Uighur Autonomous Region)哈密市(ハミ、Hami)のバルクル・カザフ自治県に「漢城」「満城」と呼ばれる清代の二つの軍事都市が今もその姿をとどめている。両都市がシルクロード北道の要衝の地に築かれ、既に200年以上の歳月がたつ。

 同県文物局によると、地元では1990年代に文化遺産救援機関を設立し、二つの城の修復を実施してきた。2014年以降は同県だけでも3千万元(1元=約15円)の資金を投じてきた。

 この5年間では、文化財保護部門が亀裂や倒壊の生じた城壁1800メートルの修復と強化作業を実施した。県政府も古城本来の姿を復元するため複数の城門の城楼を再建。県城(県政府所在地)内で新たに建設される建物の高さと色に対する規制を実施し、現代建築と古建築との調和を保っている。

 修復作業を担当する同県文化・体育・ラジオ・テレビ・観光局の蔣暁亮(Jiang Xiaoliang)局長は、清朝康煕年間から乾隆年間にかけて清朝政府とジュンガル割拠勢力との間で行われた70年近くにわたる戦争で、バルクルは常に清軍の前線指揮と物資供給の拠点だったと説明。二つの城が築かれたのもこの時期だという。

 同県は新疆北東部に位置し、北はモンゴルと国境を接する。人口は約10万5千人。資料によると、雍正7(1729)年、寧遠大将軍の岳鍾琪(Ye Zhongqi)率いる西路軍2万5600人余りがバルクルに進駐し反乱を鎮圧。2年後の雍正9(1731)年に緑営(漢人部隊)のための軍事都市(漢城)が築かれた。当時の漢城には四つの城門があり、城壁には3600カ所の胸壁(きょうへき)、城外には砲台12門、馬面(ばめん、張出部)12カ所が設けられていた。四方を囲む幅約4メートル、深さ2メートルの堀には四つのつり橋が架けられた。

 満城は会寧城とも呼ばれ、乾隆37(1772)年に漢城の東500メートルの場所に築かれた。同城には満洲八旗に属する満人部隊2千人余りと家族が移住させられた。城壁は長方形で、東西の長さが1306メートル、南北が501メートル、高さは7メートル。城壁の四隅には角楼が設けられ、壁の外には砲台が築かれた。四方の壁の中ほどにはそれぞれ城門が設けられ、各門の外側には「甕城(おうじょう)」と呼ばれる半円形の防御施設が造られた。

 同自治区の「漢満」両城はかつて、イリ・カザフ自治州の恵遠城、ウルムチ市(Urumqi)の鞏寧(きょうねい)城、昌吉回族自治州奇台県(Qitai)の孚遠(ふえん)城と共に新疆北部の四大要塞都市と呼ばれた。(c)Xinhua News/AFPBB News