それぞれの人生で出会った「決定的なクルマ」について綴ったエッセイです。自動車ジャーナリストの藤野太一さんが選んだのは、「ユーノス・ロードスター」。人生を変えたクルマの物語をどうぞお楽しみください。

恩車であり、愛車だ!

昭和から平成へという激動の年に、ユーノス・ロードスターと出会い、クルマやサーキットの楽しさを知った。わが人生のエポックな1台と藤野太一は言う。

マツダが「人馬一体」をテーマに開発した2座オープンカー。ユーノス・ブランドから登場した初代は1989年のデビュー。2代目からマツダ・ロードスターと名を変え、現行モデルは5代目となる。

1989年、わたしの10代最後は激動の1年だった。1月7日、昭和天皇が逝去され、平成の世が始まった。4月に初めて消費税が導入された。国外ではベルリンの壁が崩壊し、中国では天安門事件が起きた。

その一方でクルマ好きはさらなる衝撃を受けた年でもあった。トヨタが初代セルシオを、日産がR32スカイラインGT-RやZ32フェアレディZを立て続けに発表。そして、マツダからはユーノス・ブランドで初代ロードスターが発売された。

裕福な家庭に育った幼馴染が発売後すぐに親に買ってもらった赤いロードスターのステアリングを初めて握ったときのワクワク感を今も鮮明に覚えている。オプション装着されていた細身のナルディのウッド・ステアリングへわずかに力を込めると、大きめのロールを伴ってヒラリ、ヒラリと曲がる。決して速くはないけれど気持ちが高揚した。いつかこのクルマを手に入れようと決意した。

学業そっちのけでアルバイトにあけくれ、120万円の頭金をつくった。知人のつてでオートオークションに潜り込み、程度はそこそこ、シルバーの初期型ロードスターを手に入れたのは92年のことだった。

北は北海道、南は九州まで旅行にも出かけたし、デートにも使った。ご多分に漏れず峠道を攻めてぶつけたこともあったし、サーキットを走るようにもなった。するとチューニング欲がわいてくる。ガソリン代はもとより、オイル、タイヤ、その他パーツのもろもろは学生には痛い出費だった。少しでも費用を節約すべく、深夜のガソリン・スタンドでアルバイトをして、休憩時間にこっそりガレージと工具を拝借していた。オイル交換はもちろん、ブレーキ・パッド交換やエア抜き、ダンパーやスプリングの取り付け方、ダブルウィッシュボーンの構造なんてものも、そのときに分解しながら覚えた。

社会人になってもそのロードスターに乗り続けた。カーセンサーの編集部に在籍していた頃にはちょうど走行距離が10万kmに到達して、中古車では定番のリフレッシュ企画を任せてもらったりもした。転勤を機に実家に預けて以来、ほとんど乗る機会がなくなったのだけれど、いつかはエンジンのオーバーホールをしようとピストンやガスケット類などをコツコツと買い集めてもいた。

05年に『カーセンサーエッジ』の創刊に携わったときにはラッキーにも3代目のNC型ロードスターの担当を任された。サード・ジェネレーションリミテッドという初期型に設定された限定車は、真っ赤なレザー・シートに、ボーズのオーディオや専用デザインの17インチ・アルミと、ちょっと豪華な仕様だったけれど、それもまごうことなきロードスターだった。

14年9月、千葉県幕張のイベント会場で開催された第4世代となるND型ロードスターの発表会にも立ち会うことができた。一般のファンを優先的に前列の席へ、報道関係者は後席にというファンを大切にする演出のもと、固唾を呑んで見守る観衆の前に、軽量、FR、重量配分最適、そしてアフォーダブルであるべきという執念の権化ともいうべき新型が姿をあらわしたとき、会場が一瞬静寂に包まれ、そして大歓声が巻き起こった。あとにも先にもない不思議な体験だった。こうしてロードスターはわたしのクルマ人生においてエポックな存在であり続けている。

かつて村上編集長はロードスターについて「こんなに走らせて楽しいクルマを日本が持っていることを誇りに思う。運転の技術も楽しさもすべてロードスターで学んだ。私の恩人ならぬ恩車だ」と述べていた。

わたしの実家にはいまも初代ロードスターがある。そのカタログには、『乗り手と愛馬との間に通う、そうした一体感こそ、ドライバーとスポーツカーを結ぶいちばんの絆であるとの思いが、「人馬一体」という言葉には、込められている』という記述がある。わたしにとっても紛れもなく恩車であり、そして愛車なのだ。

文=藤野太一(自動車ジャーナリスト)

(ENGINE2020年7・8月合併号)