これまでに出会ったクルマの中で、もっとも印象に残っている1台はなにか? 多くのクルマを知る自動車ジャーナリストとエンジン関係者59名が、それぞれの人生で出会った「決定的なクルマ」について綴ったエッセイです。自動車ジャーナリストの藤島知子さんが選んだのは、「アウディS1」。人生を変えたクルマの物語をどうぞお楽しみください。

私にとっては宝石のよう

とある取材で夕暮れ時の筑波サーキットを走らせたアウディS1。茜色の空と、レースに掛けてきた思い。撮影を終えてクルマから降りる時には「このクルマを買おう」と決めていた。

自分の人生を変えるほどの影響をもたらすクルマ―美しいスタイリングかメカニズムか、はたまたドライブ・フィールなのか。これまでに出会ったクルマを振り返ってみたら、私の中で色んな思いが巡った。そして、私の価値感を変える影響をもたらしたのはクルマそのものではなく、『所有した愛車と過ごした時間』だったな、という思いに行き着いた。

24歳の時に清水の舞台から飛び降りた気分で購入したマツダ RX - 7。MT車を5年ローンで購入したが、今こうして執筆活動を行うジャーナリスト業とレースの世界に導くキッカケとなったクルマだった。そうはいっても、このクルマだけが印象に残っているワケではない。仕事柄、一年に数百台のクルマと向き合う機会に恵まれているが、特別な感情を抱くキッカケは、そのクルマの魅力が際立つ世界を表現した一枚の写真であることもあるし、ステアリングを握って走り出した感触で購入を決めるケースもある。いずれにしても、直感を信じて手に入れたクルマは、その後、想像していた以上に濃い蜜月を過ごすことに結び付き、次第に私自身が変わっていったのだ。

そうしたなか、特に印象深い出会いとともに私に大きな影響を与えたクルマは、いまも仕事の現場に行き来する相棒として活躍しているアウディS1だ。新車で購入して、すでに5年の月日が経過したが、最初の出会いは、とあるメディアの取材で夕暮れ時の筑波サーキットを走らせた時だった。これまで色んなレースで戦ってきた筑波のコース2000を占有走行で一人きりで走りきるという、なんとも贅沢なシチュエーション。小粒ながらにストイックな性格をもつアウディS1は2Lの直噴ターボエンジンに6段MT、クワトロ・システムを搭載したモデルで、ドライバーの意図を汲み取りながら、エキゾースト音を心地良く響かせながら駆け抜けた。路面との接点を肌で触れていくようなタイヤの感触と自在に駆け抜けていける走り。茜色の空とそれまでレースに掛けてきた思いが頭の中で交錯するシチュエーションはなんともドラマティックに映った。撮影を終えてクルマから降りる時には「このクルマを買おう」と心に誓っていた。間もなくディーラーを訪れた私は試乗車と同様のS1を注文。納車まで2ヶ月ほど待つことになったが、ドイツを出航した船が日本に辿りつくまでの時間を楽しんでもらいたいと、担当者が自分のクルマを載せた船の位置を地図上で確認できるWebサイトを教えてくれた粋な計らいにも感謝した。

納車から2年が経ち、S1がすっかり相棒として馴染んでいたころ、7年間も遠ざかっていたレースにシリーズ参戦する話が舞い込んだ。MT車を転がすことには慣れていた私だったが、自分自身のドライビングを見直さざるを得ない状況に追い込まれていた。現代のクルマはなんとなく操作してもそれなりに走ってくれる。ただし、クルマのポテンシャルをギリギリまで引き出して戦わなければ勝負にならないレースの場合、自分の操作がそのままクルマの挙動に跳ね返り、ラフな操作がマシンの挙動に及ぼす影響は大きい。つまり、操舵はもちろん、ペダル操作、それらを繋ぐタイミングに至るまで、隅々まで意識を行き渡らせる集中力も求められるのだ。クラッチペダルとシフト操作の連携で変速させるMT車は2ペダルのクルマと違って、ドライバーにリズム感やマルチタスクが求められる。その点では、運転操作に良くも悪くも忠実に反応するS1は最適な相棒といえた。その日の体調などで時にギクシャクした動きをすることもあるが、些細な変化を認識し、修正する作業で腕を磨くにはもってこいのクルマだった。「今どきMT?」と時代錯誤に思われるかも知れないが、人が操作を行う以上、意識と能力を高めるキッカケは必要だと思う。制御技術が発展していく今の時代だからこそ、人の能力と可能性を広げるクルマの存在は私にとって宝石のように映るのだ。

文=藤島知子(自動車ジャーナリスト) 写真=茂呂幸正

(ENGINE2020年7・8月合併号)