【6月24日 People’s Daily】寧夏回族自治区(Ningxia Hui Autonomous Region)呉忠市(Wuzhong)花馬池鎮(Huamachi)に、「1本の樹」と呼ばれる集落がある。70を過ぎた老人が言うには、彼の幼いころには確かに1本の樹があり、どんな植物も覆いつくすことはできなかった砂漠の中で生きていた。しかし、前世紀80年代に姿が消え、あとには何も生えない砂漠だけが残ったという。 

 1世紀近くの時間が流れ、「1本の樹」は「樹のない土地」に変わった。しかしまた、1980年代より「樹のない土地」から「10本の樹」「100本の樹」と増えていく動きも始まり、現在は「10万本の樹」になろうとしている。1980年、1人の農婦である白春蘭(Bai Chunlan)さんが、夫や有志の仲間と、不毛の土地に樹を植え始めたのだ。少なくない人がこの地に来たが、耐えられずにすぐ去っていった。白春蘭さんは夫と共にこの地に残り、40年の間樹を育ててきたのだ。

 1970~80年代、呉忠市塩池県(Yanchi)の人口の75%と耕作地は砂漠地帯にあり、生態的環境は脆弱(ぜいじゃく)なものだった。風で吹き付けられる砂に悩まされ、砂丘に囲まれた村は耕地がなく、生態環境は人が生きるには厳しすぎた。

「おなかいっぱい食べることなどできず、土壌は何を植えても育たず、県では人々に植林を呼び掛けていましたが、当時は生活苦を解決することしか考えられず、苦労をしました」。白春蘭さんは1980年、27歳の時に夫と幼い子供と樹の苗を積んだ木製の台車を引いて、「1本の樹」のほうに植林に出向いたことを回想する。

「みんなここを『1本の樹』と呼んでいましたが、私たちが初めてここに来たとき緑はどこにもなく、砂だけが果てしなく広がっていました」。当時、白春蘭さんは毎日16キロメートル歩いて往復しており、夫は何も遮るものがない砂漠で夜を過ごし、昼に植えた樹の苗の面倒を見た。「植えたばかりの樹の苗は柔らかく、根付く確率が低いのです。家族は毎日鋤(すき)で根気強く水を掘りました」

 1984年、白春蘭さんは3ムー(約2000平方メートル)の小麦を植え、翌年には4袋の麦を収穫した。彼女はこの村で植樹と開墾ができ、飢えずに生活できると証明されたことに喜びがあふれた。

 砂漠を治めるためには、真面目に仕事をこなすだけでなく、科学技術の支えが必要である。最初は、白春蘭さんも夫も経験がなかった。1984年の初春、塩池県科学委員会が白春蘭さんの家に優良種のブドウの苗を植えるよう勧めた。白春蘭さんはとても大事に思い、1本1本を砂地に植えた。やがて、ブドウは枯れてしまった。白春蘭さんは専門家から教えてもらって初めて、土の粘度が足りなければ水を抱え込めないことを知った。塩池県は干ばつ帯にあり、水の蒸発量が多く、ブドウの幼い苗はすぐに枯れてしまうのだった。

 この時から、白春蘭さんはいたるところで常に技術を磨く機会を探すようになった。「1本の樹」村から遠くない場所に研究所の試験場が設立されると聞き、白春蘭さんはすぐ専門家を招き、草を根付かせ流砂を固定する方法についてたずねた。彼らの助けを借りて、砂地で生育するのに適した植物の苗を植えた。一年で白春蘭さんと夫の植えた樹の生存率は70%に達した。

 2005年から、白春蘭さんは旅行産業の開発にも着手した。彼女が作った緑化公園は全県に名が知れた観光スポットとなった。彼女は植樹・養殖・観光をリンクさせ、この村の稼ぎ頭となった。

 今年67歳の白春蘭さんは、身体は健康で、今も忙しく植樹と造林に勤しんでいる。仲間はますます増え、その多くが自主的に植樹に加わった人だ。「これが私の喜びで、私はこの一生で、愛する仕事を選びました。私は安心して、かつ充実して歩んでいけるのです」 (c)People's Daily/AFPBB News