【6月14日 Xinhua News】中国北京市では、中国文物交流センターと中華世紀壇芸術館が主催する「三国志・文化テーマ特別展」が、新型コロナウイルスの感染拡大による中断を経て5月中旬から一般公開を再開しており、約1カ月を経た今でも、多くの歴史ファンが会場に足を運んでいる。同展は、昨年に東京と福岡で開かれた特別展「三国志」の中国側での開催となる。

 同センター展覧処の李天凱(Li Tiankai)副処長は「特別展の展示品は、中日両国の専門家が中国の20を超える省(自治区・直轄市)の研究機関や博物館・美術館50カ所余りを3年間かけて訪問し、170点余りの貴重な文化財を厳選した。後漢、三国、西晋各時代の文化財・考古学研究の成果をさまざまな角度から展示している」と語った。

 ここでは注目される展示品を幾つか紹介しよう。

 ▽古代の「修正液」

 現代人は文字を書き間違えた時、鉛筆なら消しゴム、ボールペンや万年筆なら修正液や修正テープを使う。古代の人々はどのように訂正していたのか。

 答えは遼寧省博物館が所蔵する「漢代金馬書刀」が教えてくれる。紙が普及する以前の中国では、木簡や竹簡が主な書写材料として用いられ、書き間違えた場合は「書刀」と呼ばれるナイフで誤字を削り取っていた。

 漢代の書刀は実用性と装飾性を兼ね備えており、中でも最高の技巧が凝らされているのが「金馬書刀」とされる。装飾は精巧で美しく、漢代には書刀を帯びるのが流行したこともあったという。

 ▽古代の「ボードゲーム」

河南省洛陽市の洛陽博物館が所蔵する「陶制六博案」は、同市嵩県呉村で出土した。ただの正方形のレンガに見えるが、漢代には「六博(ろくはく)」と呼ばれる盤上遊戯に使われた。

 六博は春秋時代に出現したとされ、漢代には貴賤(きせん)を問わず流行した。すごろくのような遊び方をしたと考えられており、その名はさいころに当たる6本の「箸(ちょ)」を投げたことに由来する。

 ▽曹操の書

 後世の歴史家の多くは、三国時代の魏を「曹魏」と呼ぶ。三国の中でも最強の国家だった。

 曹魏は軍事力で国を興したが、曹氏一族は文学においても多大な功績を残した。特に曹操(そう・そう)とその子の曹操(Cao Cao)と曹植(Cao Zhi)は詩文にたけていた。

 陝西省の漢中市博物館が所蔵する摩崖石刻拓本の隷書「袞雪(こんせつ)」の2文字は、丸く流れるような字形、激しく波打つような勢いを持つ。曹操の直筆と伝えられる。

 言い伝えによると、建安24(219)年に漢中の褒谷口に軍を駐屯させた曹操は、とうとうと流れる褒河の水が岩に当たり雪のような水しぶきを上げる様子を見て「袞雪」の2文字を揮毫(きごう)した。家臣が「なぜ『滾』のさんずいが無いのか」と問うと、曹操は「これほど川の水があるのに、まだ水(さんずいの意)が足りないというのか」と笑いながら答えたという。

 ▽古代の印章

 蜀は「蜀漢」「季漢」とも呼ばれ、中国南西地方に割拠した。長期的に見ると、蜀漢政権による南中地域(雲南省、貴州省、四川省南部)の統治は、中国の南西地域の開発にプラスの効果をもたらした。

 雲南省博物館が所蔵する「孟騰子母印」は、同省昭通市の二坪寨梁堆墓から出土した。子母印(入れ子式の印章)は大小2個の印章からなり、大きい印には「孟騰之印」、小さい印には「孟騰」と刻まれている。

 印章は諸葛亮(Zhuge Liang)が南征した際に「七度孟獲(Meng Huo)を捕らえた」故事に関係すると伝えられている。

 ▽古代の手工芸品

 呉は、孫氏が建てた国であり「孫呉」とも呼ばれる。三国の中では統治地域が東にあったため「東呉」ともいう。

 孫呉の芸術方面の成果では、陶磁器が最も目を引く。青磁俑は三国時代の孫呉の墓葬から多数出土しており、主に生前の墓の主人に仕えた侍衛や奴僕をかたどっている。磁俑の身分は当時の社会階層と分業を反映しており、社会生活の写し絵といえる。

 今回の特別展には青磁の羊も出展された。高さは25センチ、長さ30・5センチ。造形は写実的で、胸を張って頭を上げ、口はわずかに開き、四肢を丸めている。頭には曲がった角、肩には2枚の翼を持ち、宗教的な意味が込められている。羊の頭頂部には丸い穴が開けられており、元々は燭台(しょくだい)か酒だるだったと推測される。(c)Xinhua News/AFPBB News