【6月10日 Xinhua News】中国で新型コロナウイルスの感染が拡大した当時、感染者が集中した湖北省(Hubei)武漢市(Wuhan)は、さらなる感染拡大を阻止するため都市封鎖を実施した。同市で自動車向けソフトウエアの開発を行う武漢光庭信息技術の朱敦尭(Zhu Dunyao)董事長(56)は、市内全域に厳戒態勢が敷かれ、道路の封鎖により人の移動もままならない中、日本大使館の要請に応じ、同国政府が実施した5回のチャーター機派遣による日本人の帰国ミッションに協力した。省内13の市と県・区に滞在していた日本人とその家族821人を武漢空港に送り届け、今回のミッションの成功を支えた。朱さんは「日本人帰国への協力は、民間の中日友好が背景にあった」と語る。

 武漢が「封鎖」されて2日後の1月25日、朱さんは懇意にしている日本貿易振興機構(ジェトロ、JETRO)武漢事務所の所長から電話を受け「日本政府が武漢の日本人を帰国させると決めた。省内各地の日本人を空港に送る協力をしてくれないか」と打診された。かつて日本に留学し、勤務経験もある朱さんは快くこれに応じた。

 翌日には、北京の日本大使館から正式な協力要請が届いた。朱さんは自社の幹部と日本語のできる社員23人からなる特別チームを組織し、車の手配や関係部門との調整、通訳などを主に担当した。

 当時はちょうど春節(旧正月)の時期で、運転手の多くは既に帰省しており、使える車はごくわずかだった。また、省内全域で緊急態勢が敷かれており、域内の道路は緊急車両のみ通行が許されていた。車両通行証を1枚入手するだけでも困難を極めたが、朱さんのチームは各方面で努力を重ね、なんとか車7台を確保することができた。

 第2便のミッションの際には、手配していた車両が突如キャンセルになるというトラブルに直面した。朱さんは携帯メールで武漢市の副市長に支援を要請。返信を待つ間も社員に自家用車での空港送迎を呼び掛けた。朱さんは「わずか15分で数百人の社員が応じてくれた。本当に感動した」と当時を振り返る。

 副市長の協力により、湖北省公路客運集団が車両と乗務員を手配し、日本人帰国者の送迎に協力した。同集団の協力は最後の第5便まで続いた。朱さんは「肝心な時の政府の執行力や資源の調達能力、国営企業の責任感を実感した。湖北省公路客運集団の協力で何とか無事に第2便のミッションをやり遂げた」と述べた。

 帰国ミッションが第4便、第5便へと進むと、迎えに行かなければならない帰国者は省内13の市、県・区に広がった。同省は東西に幅広く、日本人が住む地域も分散していた。一部のバスは突発的状況に備え、チャーター機が離陸する19時間前の午前4時に武漢を出発し、周辺都市に日本人を迎えに行った。

 大型バスの運転手は帰国者を迎えに行くに当たり、朱さんのチームと位置情報を終始共有した。後方支援担当のメンバーは、バスの位置情報から乗車時間を判断し、バスが間もなく到着するタイミングで該当する帰国者に連絡を入れた。朱さんは「いてつく寒さの中、道路脇で長時間待つのは大変ですから」と説明した。

 朱さんとチームのメンバーは帰国ミッションの間、毎回の帰国者がチャーター便に搭乗し、武漢を離れたのを確認してから床に就いた。仕事はいつも午前3時、4時までかかった。朱さんは最後の第5便の帰国支援を終えると過労で倒れ、胆のう炎と胆石で入院した。

 朱さんは「日本人の帰国支援はそれ自体が単独で発生した事柄ではなく、中国と日本の長年の民間交流が背景にある。だからわれわれは危険と災難の時に立ち上がり、当然の責務として帰国ミッションに協力した。他の会社であってもきっと同じことをしただろう」と語った。

「山川異域、風月同天(山河は異なれど、風月は同じ天に通ず)」。武漢の感染状況が最も深刻だった時、日本のデンソーや朱さんの会社が日本に設立した子会社の社員は、4万枚以上のマスクをかき集め、朱さんの会社を通じて同市の各病院に寄付した。

 その後日本で感染が拡大すると、朱さんは退院後の3月19日、省内で20万枚のマスクを調達し日本へ送った。朱さんは「親戚同士が助け合うのと同じ。両国民の心がつながっているのを実感している」と語った。(c)Xinhua News/AFPBB News