【6月4日 AFP】死海(Dead Sea)周辺で発見された古代の聖書写本群「死海文書(Dead Sea Scrolls)」のDNA調査で、死海文書の一部については、発見された砂漠の地域に由来するものではないことが判明した。研究結果が2日、発表された。

 約900の写本群から成る死海文書は、1947年から56年にかけて死海北岸にあるクムラン(Qumran)洞窟で発見された。最初の発見者は遊牧民ベドウィン(Bedouin)の羊飼いだった。クムラン洞窟は現在、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸(West Bank)のイスラエル占領地内に位置している。

 死海文書の調査は数十年前から続けられていて、羊皮紙とパピルスの巻物はヘブライ語、ギリシャ語、アラム語で書かれており、世界最古の「十戒」の写本をはじめ、最古級の聖書写本が含まれていることなどが分かっている。 

 イスラエル考古学庁(IAA)の死海文書調査プロジェクトを統括する研究者のプニナ・ショル(Pnina Shor)氏は、「死海文書はすべてヤギの皮に書かれているとこれまで考えられていたが、今回の研究では羊皮紙の断片の分析を通じて、一部の文書がウシやヒツジの皮に書かれていたことが明らかになった」と説明する。

 ショル氏は、AFPの取材に「この研究結果により、ウシやヒツジの皮に書かれた写本は、発見地の砂漠に由来するものではないことが分かる」と語った。

 IAAとイスラエル・テルアビブ大学(Tel Aviv University)の研究チームは、13の文書を対象に調査を7年かけて実施した。だが、ウシやヒツジの皮の写本断片がどこに由来するかを突き止めることはできなかった。

 死海文書は紀元前3世紀から紀元1世紀ごろに、ユダヤ教エッセネ派の人々によって書かれたと多くの専門家は考えている。反体制のエッセネ派は、ユダヤ砂漠(Judean Desert)のクムラン地方と周辺の洞窟群に引きこもって暮らしていた。文書の一部については、ローマ人の侵攻から逃れてきたユダヤ人が隠したと主張する専門家もいる。

 ショル氏は、「今回の研究で得られた初期成果は、第2神殿(Second Temple)時代に暮らしていたユダヤ人の生活に関する研究に影響を与えるに違いない」と述べる。第2神殿とは、エルサレム(Jerusalem)にあった神殿で、紀元70年にローマ人によって破壊された。

 イスラエルおよびパレスチナ自治区周辺では、こうした考古学的調査の取り扱いが極めて難しい。紛争中の土地に対する自らの主張を正当化する目的で、考古学的調査の結果が特定の組織や政党によって利用される場合があるためだ。(c)AFP