【5月14日 Xinhua News】中国新疆ウイグル自治区(Xinjiang Uighur Autonomous Region)文物考古研究所は、6年にわたる発掘調査を経て、同自治区奇台県(Qitai)にある石城子遺跡が後漢時代の武将、耿恭(Gen Gong)が駐屯した「疏勒(そろく)城」の跡だと特定した。後漢の将兵は当時、この場所で匈奴と激戦を繰り広げ、耿恭ら歴史に名だたる英雄を輩出した。考古学研究者の努力により、この血で血を洗う戦いを経たシルクロードの要衝は、再び人々の前に姿を現した。

 考古研究者らの調査で、疏勒城が山麓の突き出た先端部分に山や川を巧みに利用して構築されていたことが分かった。城は北側と西側に城壁を設け、東と南は深い谷を天然の要害としており、厳しい地形がこの城を守りやすく攻めにくい要害の地としていた。

 同遺跡の発掘調査の責任者を務めた同研究所の田小紅(Tian Xiaohong)副研究館員は、後漢の歴史を記した「後漢書」に、戊校尉の耿恭が疏勒城の傍らにある谷の有用性を認め、天険を頼りに守りを固められる場所として金満城(現在の新疆ウイグル自治区ジムサル県)から拠点を移したとの記載があると指摘。北に奇台やジムサルなどのオアシスと連なり、天山を南に越えればトルファン盆地に出る石城子遺跡の立地条件や、耿恭が谷の存在を防御の固さの根拠としていた点などを考えれば、同遺跡と疏勒城は条件が一致すると説明した。

 城跡は明らかな軍事的特徴も示していた。発掘調査に関わった同研究所の呉勇(Wu Yong)研究館員によると、城跡の平面は南北380メートル、東西280メートルのほぼ長方形で、総面積は約11万平方メートル。城壁は土を突き固める「版築」方式で、北西角と北東角には望楼、北側城壁には二つの馬面(張り出し部分)が設けられ、西側城壁から10メートルの場所には堀が施されていた。城門は西側城壁の中央部に1カ所のみ設置されていた。「出土品には弩(ど、射撃用武器)の部品や鉄製鎧(よろい)の一部、鉄や銅の矢尻なども含まれていた」という。

 出土品は灰陶(かいとう)の磚(せん、れんが)や瓦などの建築材料が中心で、軒丸瓦の先端に付ける「瓦当(がとう)」の多くは雲文や幾何学文で飾られ、表面に「馬」や「宋直甕」の文字が刻まれたものもあった。また「五銖銭(ごしゅせん)」と呼ばれる貨幣も出土した。呉氏は「多くは前・後漢時代の器物だ」と説明した。

 後漢王朝は西暦74年、西域経営を統括する西域都護職を復活。耿恭を戊校尉に任じ金満城に駐屯させた。翌年に匈奴の大軍の侵攻を受けた耿恭は、疏勒城へ退却した。「後漢書」は疏勒城の守りを固めた耿恭が「孤立状態で城を固く守り、数万の匈奴の攻撃を1年以上も心力を尽くして防いだ。山に井戸を掘り、弩を煮て食糧とし、万死一生の望みもない状況を戦い抜いた」と記している。耿恭が疏勒城から退却した時には、わずか26人になっていたという。

 田氏は同遺跡について、自治区内でこれまで見つかった中では、年代が正確に確定でき、形状がほぼ整い、保存状態も良く、文化的特徴も明らかな唯一の漢代の遺跡だと指摘。漢王朝が西域を確実に統治していたことを示す歴史的証拠でもあるとし、将来的に考古遺跡博物館などが造られる可能性もあるとの見方を示した。(c)Xinhua News/AFPBB News