【5月7日 People’s Daily】「ドンドンドン」

 中国湖北省(Hubei)武漢市(Wuhan)の民家を訪れた呉悠(Wu You)さんが、ドアでなく窓をノックした。住民は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、自宅から出られない。呉さんは弁当やケーキ、そしてマスクを窓越しに渡し、そのまま立ち去った。

 地元高校の新人教師、20代の呉さんが薬の配達を始めたのは、旧正月の元日にあたる1月25日。それから武漢市の都市封鎖が解除される4月8日まで、電動自転車で武漢市内の大通りや路地を走り回り、約700人に医薬品や支援物資を届け、最も困難な時期を支えた。

 呉さんは感染症が拡大した当初、教え子の保護者から「マスクと薬を手配できないか」と助けを求められた。その際、中国版ツイッター「微博(Weibo)」で、「マスクや薬を売っている場所を知っているので、武漢市内の江岸区(Jiang'an)、江漢区(Jianghan)、礄口区(Qiaokou)付近なら無料で届けますよ」とメッセージを送った。呉さんのフォロワーは300人程度で、友人や家族、親戚ばかり。顔見知りの手助けをしようと考えたのだが、あっという間に知らない人から「助けてほしい」と依頼が殺到した。

「言い出したからにはやるしかない」。呉さんは教え子の黄新元(Huang Xinyuan)さんに協力を依頼し、2人で薬を届けた。午後2時から配達を始め、帰宅できたのは午後10時すぎだった。

 助けを求める声はどんどん増える。3歳の子どもを一人で世話していた父親は、自分に新型肺炎の疑いがあるためトイレと台所だけで行動し、薬品も食料も尽きる寸前だった。「状況が好転するまで、薬や物資を届け続けよう」。呉さんは腹をくくった。薬の代金は立て替え、お年寄りや子どもを優先して無料で届けた。

 自分たちも感染するリスクはあったが、それでも活動を続けた。「私たちは別に人格者とかじゃないですが、助けを断るわけにはいかないですからね」と呉さんは振り返る。

 支援を始めて3日目の1月27日午後10時すぎ、呉さんが自宅でやっと横になった時、携帯電話が鳴った。「武漢の自宅で隔離されている私の伯父が呼吸困難に陥っている。急いで薬を届けてくれませんか」

 外は雨。呉さんはレインコートをまとって、すぐに出かけた。伯父が住む団地は武漢市郊外にあり、地図を見ながらなんとか到着したが、どの棟に住んでいるか分からない。

 呉さんは雨の中、一棟ずつ回って大声で名前を叫び続けた。第6号棟で、ようやく見つかった。お年寄りの男性は薬を受け取ると、両手を組み合わせながら頭を深々と下げ、涙声で呉さんに感謝した。

 その3日後、呉さんは同じ依頼者からまた電話を受けた。「伯父はいま、入院して治療を受けています。最も危険だった時に助けてもらったおかげです」

 電話を切った呉さんは「私にも人を助けることができるんだ」と感極まった。

 呉さんの活動は、大きな輪となっていく。2月中旬になると呉さんの元に有志が次々と集まり、ボランティアグループが生まれた。インターネットで新しいニュースを確認する人、薬を届ける人と役割分担ができるようになり、届ける範囲も武漢市全域に広がった。呉さんは通信アプリ微信(WeChat)で、心理カウンセラーや医師、病人らが入った250人のグループを作り、オンライン診療を実現し、感染症を克服した人の情報共有をした。地図アプリを開発しているプログラマーは、薬を届ける効率的なルートを編み出した。

 かつて300人だった呉さんの微博のフォロワーは100万人を超え、各地から支援物資が届くようになる。四川省(Sichuan)のボランティアグループは医薬品と4トンの野菜、北京の作家グループは防護服と消毒用アルコール、海外の留学生からはマスクが届いた。

 3月末、武漢市内でバスや地下鉄が再開し始め、助けを求める人もようやく減っていった。その間、呉さんは物資を受けた多くの人から「謝謝(ありがとう)」の声と、100万人のフォロワーから「いいね」を受けた。

 くたくたに疲れ果て、さまざまな困難に直面した日々。支援を始めた当初は求めに応じることができなかった人もいて、心残りもある。それでも、大きな意義があったと今も感じる。「感染症が拡大している時期だけでなく、今後も必要な人に支援すること、関心を持ち続けることが必要です」。呉さんは微博にそう記している。(c)People's Daily/AFPBB News