■1940年東京五輪

 1940年の五輪開催地に立候補した東京は、延期が決まった今年の東京五輪と同様この大会を「復興五輪」と位置付けていた。2020年東京五輪は東日本大震災からの復興と銘打ったように、東京は1940年の五輪を1923年の関東大震災からの「復興」の証しにしようとしていたのだった。

 1940年の五輪招致は近代柔道の祖であり、日本人初のIOCの委員であった嘉納治五郎(Jigoro Kano)が推進した。イタリアの独裁者ベニト・ムソリーニ(Benito Mussolini)にローマの立候補の取り消しを懇願するなど猛烈なロビー活動の結果、東京は1940年の五輪開催地に選ばれた。

 日本にはまた、1940年が神武天皇即位紀元2600年に当たることから、記念行事の一環として五輪を誘致したいという特別な理由もあった。

 だが1937年に日中戦争が勃発し、五輪断念を求める日本への外交圧力は徐々に強まっていった。また軍部は、戦争資金を五輪の関連施設建設に回すことに疑問を呈し始めた。

 日本オリンピック委員会は1938年、ついにIOCに開催返上を伝え、「中国との問題」によって五輪開催が不可能になったというえん曲な説明をした。さらに同年札幌で開催予定だった冬季五輪の開催も断念した。

 IOCは夏季五輪の開催地をフィンランドの首都ヘルシンキに、冬季五輪をスイスのサンモリッツ(St. Moritz)にそれぞれ変更したが、両大会とも第2次世界大戦(World War II)により中止となった。

 東京でついにアジア初の五輪が開催されたのは、1964年のことだった。

■1944年ロンドン五輪

 欧州は、ナチス・ドイツ(Nazi Germany)によって「巻き起こされた嵐」と当時英首相だったウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)が呼ぶ状況にあった。だがIOCは1939年7月に英ロンドンで会合を開き、1944年大会の開催都市をロンドンに決めた。

 しかしそのわずか3か月後、英国はドイツに宣戦布告し、1944年の大会は実現しなかった。

 冬季大会はイタリアのコルティナダンペッツォ(Cortina d'Ampezzo)で開催される予定だったが、これも中止となった。同市は1956年に冬季五輪を開催。さらに2026年には冬季五輪をミラノと共催する予定だ。

 第2次世界大戦終結から3年後の1948年、世界が徐々に復興しつつある中、ロンドン五輪が開催された。この大会は「緊縮財政の五輪」として知られている。敗戦国のドイツと日本は参加が許可されなかった。(c)AFP/Richard CARTER