【3月20日 AFP】新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的な大流行)により、東京五輪が延期または中止される可能性が出てきているが、日本は過去にも同じような経験をしている──1940年に東京で開催予定だった夏季五輪だ。

 戦争が泥沼化した影響で開催地がフィンランドの首都ヘルシンキに変更になったこの五輪は、最終的には第2次世界大戦(World War II)を理由に実現しなかった。こうして「幻の五輪」として知られるようになった。

 デイビッド・ゴールドブラット(David Goldblatt)氏の著書「オリンピック全史(The Games)」によると、東京は1940年の開催地として自らを大々的に売り込んでいた。2020年の東京五輪を2011年に起きた東日本大震災からの「復興五輪」と銘打っているのと同様、1940年の東京五輪を1923年に起きた関東大震災からの「復興」の証しにしようとしていたのだった。

 1940年の五輪招致は、近代柔道の祖、嘉納治五郎(Jigoro Kano)が推進した。日本人初の国際オリンピック委員会(IOC)の委員であった嘉納は、アジアで五輪を初開催する重要性を強調していた。

 また日本には、1940年が神武天皇即位紀元2600年に当たることから、記念行事の一環として五輪を誘致したいという特別な理由もあった。

 東京は1932年に正式な招致活動を開始したが、イタリアのローマとフィンランドのヘルシンキがライバルとなった。日本は猛烈なロビー活動を展開。イタリアの独裁者ベニト・ムソリーニ(Benito Mussolini)に、日本のために立候補を取り消してくれるよう懇願さえもした。

「『困ったときはお互い様』という取引は、国際スポーツ政治の世界で標準となった。ムソリーニは普段とは違う誠実さをみせ『日本が1944年開催予定の第13回五輪をローマに招致するイタリアの活動を支持するなら、われわれは日本のために1940年の立候補を取り下げる』と発表した」とゴールドブラット氏は書いている。

 最終的に東京とヘルシンキの間で投票が行われ、37票対26票で東京に決まった。